「平成の三四郎」古賀稔彦氏この世を去り1年 長男颯人決意の「古賀塾」再建、遺志を継承

古賀塾の道場で写真に納まる故古賀稔彦さんの長男颯人(撮影・江口和貴)

「平成の三四郎」古賀稔彦氏がこの世を去り、今日24日で1年になる。がんにより53歳という若さで、柔道界の星は逝った。いま、長男颯人(24)は現役選手を続けながら、同じ指導者という立場にもなり、父の教えを継ごうとしている。息子が見た最後の戦いの日々、「優しさ」を大事にしていた姿、そして新たな覚悟を聞いた。

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今でも、あの強く握られた感触は鮮明だ。亡くなる前日、颯人は病に朽ちていく父に触れ、全身のマッサージをしていた。手が父の手のひらに重なった時だった。「逆に強く握ってきて。いま思えば、何か伝えてきたのかなと。『俺は頑張ってるよ』って」。

日ごとに細る体に反して、家族の誰もが回復を疑わなかった。治ると信じていたからこそ、家族以外にはがんの悪化を伝えていなかった。話すこともかなわなくなっていた父自身も、戦いをやめていなかった。「最後の言葉はなかった。最後まで戦っていたから。本当に頑張ってくれたと思います」。畳の上で死線を越えるような戦いを繰り返し、それは病にも、そして人生の最後まで同じだった。

あれから1年が過ぎた。社会人2年目、24歳を迎えた。「この時と一緒って考えられないですね」。視線の先には道場に飾られた写真があった。92年バルセロナ・オリンピック(五輪)の決勝を終え、天を仰ぐ姿。日本の五輪史に刻まれる場面だ。

現地での直前の稽古で、後輩の吉田秀彦の相手を務めた時に、左膝を負傷。歩けない状態から強行出場し、金メダルをつかんだ。諦めずに戦う。2歳で柔道を始めた颯人は、その映像を何度も見た。休日も朝から、現役時の父の雄姿を目に焼き付けた。「豪快に投げたりするところから刺激をもらって、こうなりたいと」。逆に言えば、練習では「強くなれ」「勝て」という言葉は聞いたことはなかった。だから、映像に求めていたのかもしれない。

慶応高の教員として、同じ指導者の立場になった。「強くなれより優しくなれ」。そう諭されてきた。1回も稽古で怒られたことはない。「厳しく指導を受けて、それで世界一にもなって結果も出たのに、違う方法で育てたのはなぜかなと。最近よく考えます」。

主眼に置いたのが、人間教育だったから。それが実感だ。03年に立ち上げた「古賀塾」は小学生がメイン。電車、バスで高齢者に席を譲ること、ゴミを拾うこと。試合の勝敗ではなく、人間として気遣える優しい人になってほしい。それが望みだった。その人間形成に、何より柔道が貢献できると信じていた。

「道場」とせず、塾の名称にこだわった訳も、人間形成を意識したからだったという。颯人は死去後に聞かされた。「初めて知ることが多すぎて」と、周囲から真意を聞く機会も多い。

思い返せば合点がいく。家族での外食時に店主にサインを求められる。すると、喜びながらもその場ではせず、必ず家で丁寧に筆ペンで言葉も添え、郵送した。専門誌「近代柔道」で「あこがれ」の欄に自身の名前があれば、同様に色紙を送っていた。「本当に気遣いで。強くないと優しくできないですよね」。実際、日体大の同級生にも、色紙を受け取った仲間もいた。

いま、颯人の指導の軸も、そこにある。慶応高で教壇に立ち2年目。現役生活も続け、全日本選手権出場などを目指しながら、「柔道家である前に1人の人間として生きること」を伝えたいと腐心している。

幼少期、慶応義塾内の200段近くある階段が、親子で通った練習場所だった。父が同じように地元佐賀県の神社の階段を駆け上がり鍛えたことは有名だ。「よく小学生でやってましたよね」。そんな縁が、慶応高での指導の道にもつながった。そこにも父の導きがあったのかもしれない。

いま、受け継ごうと決めたこともある。「古賀塾を再建したい」。現在は休塾となっているが、興した父の遺志を継承していく覚悟を決めた。塾長は永遠に古賀稔彦であり、「(責任者が)きょうだいの誰になっても受け継げる。大丈夫」と見据える。旭化成で成長する次男玄暉、環太平洋大で主将の長女ひよりと手を取り合い、教えを伝えていく。一周忌法要後の26日には、古賀塾と父のホームページをリニューアルする。

郷里の佐賀県では、銅像を建てる話が進み、全国から賛同者が集まる。優しさに満ちた対応を受けた、颯人の同級生のような誰かも申し出ているだろう。

「形見などはないんですが、試合の時などは写真を持って行きます。大事にしてます」。1年前の力強い握り返し。そこに込められた幾重のメッセージを受け止め、これからも父と畳に上がる。【阿部健吾】

◆古賀颯人(こが・はやと)1997年(平9)9月13日、川崎市生まれ。愛知・大成中では12年全国中学生大会優勝、大成高では14年高校総体2位など。日体大では主将として学生体重別個人優勝、団体でも初優勝に導いた。命名理由は父が「風」の漢字が好きで、「日本で吹く風は世界でも吹く。世界を巡る人になってほしい」と思いを込めた。174センチ、73キロ。