パリ五輪(オリンピック)の開幕まで26日で1年となった。
その大舞台へ、着実な成長を遂げている競技がある。
7人制ラグビー女子日本代表「サクラセブンズ」は、21年東京五輪で最下位の12位。主力として活躍が期待されていた大竹風美子(24=東京山九フェニックス)は、大会約5カ月前に左膝前十字靱帯(じんたい)損傷で離脱した。
22年に代表復帰すると、今年5月に世界最高峰ワールドシリーズの最終戦フランス・トゥールーズ大会の過去最高5位に貢献した。
11月18~19日にはミクニワールドスタジアム北九州で、アジア五輪予選が行われる。1位での出場権獲得と、1年後のパリ五輪でメダル奪取を目指す大竹が思いを語った。【取材・構成=松本航】
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“日本一暑い街”の争いで名前が挙がる「ラグビータウン」の埼玉・熊谷市で、女子7人制日本代表は17日まで合宿を張った。
22日からはカナダ遠征を実施。カナダ、オーストラリア、香港と大会を想定したスケジュールで練習試合を予定している遠征中に、パリ五輪開幕1年前を迎えることになった。
大竹は素直な思いを口にした。
「前回の東京は忘れられない、悔しいオリンピックになりました。次は本当に最高の意味で忘れられない、パリ五輪にしたいです」
コロナ禍で1年延期となった21年東京大会。その約5カ月前、代表候補合宿で左膝を痛めた。
東京高3年時に陸上からラグビーに転向し、日体大で活躍。シンデレラストーリーを歩んでいた大学卒業前の22歳にとって、簡単に受け入れられるものではなかった。
「灰になっていました。リハビリのスタートを切ろうと思っても、すぐに切れなかった。自分の気持ちが固まるまでは、ありのままを受け入れようと思いました」
毎日ノートに悔しさや、苦しい気持ちを書きつづった。東京・足立区の自宅から応援した五輪は、12チーム中12位。試合後はすぐに仲間と連絡をとり、リアルタイムで思いを共有した。
「仲間たちの苦しそうな姿を見て、私もすごく苦しかったです。『私は何で、この画面の先にいないんだろう?』と思った気持ちを忘れないように、目に焼き付けました」
新体制での再出発。3年後のパリを見据え、大竹も徐々にリハビリのペースを上げた。
22年に代表復帰を果たすと、同年8月に世界最高峰「ワールドシリーズ」への昇格に貢献。9月のW杯南アフリカ大会も、過去最高9位で大舞台を終えた。
「東京五輪前はラグビーの競技年数も少ないし、チームに引っ張ってもらう立場でした。がむしゃらでした。今は年齢も中堅になった。自分が得意な空中戦、ボールキャリー(前進)のところで、みんなに『こうしたらいいよ』と伝えられるようになってきました」
ナイジェリア人の父、日本人の母を持ち、陸上の7種競技ではインターハイ6位入賞を飾った経験がある。15人制と同じ広さのピッチの7人制で、大竹の存在はアクセントになる。
現在、日本代表としてはチーム防御を強化。「コネクション(つながり)」を強く意識する。
「私たちの強みがはっきりしてきました。1対1だと体の大きさ、スピードで、強豪国に劣ってしまう。代表では『常に7人(全員)が立つ』と掲げています。プレー中も話し続けて、誰かが怠っていたら『なんでしゃべらないんだ!』と言い合える雰囲気。一体感が徐々に高まっています」
ピッチ外では各競技のトップ選手を数多く抱える「UDN SPORTS」の一員として、世界中の人々がスポーツを楽しめる環境を持続させることを目標とした取り組みにも参加している。遠征で世界各地を回り、1人のアスリートとして存在意義を考えている。
「南アフリカではジャージーを持たず、はだしでラグビーする子どもたちも見かけました。その子たちにラグビージャージーなどを渡す活動を、海外の選手たちはしています。そういったこともスポーツがもたらせる力。プレーはもちろん、視野を広げることで『あんなことができそう』と考えることができています」
11月、北九州でパリ五輪予選が行われる。1位が五輪出場権を獲得し、2位と3位が最後の1枠を懸けた世界最終予選に進む。見据えるのは「優勝」だけだ。
「日本で開催されるのは、私たちにとってチャンスです。本番の緊張もあるけれど、皆さんの応援を追い風にし、私たちのやるべきことを全うして勝たないと次はない。アジアでは圧倒して勝てるように、頑張りたいです」
パリまで残り1年。秋の五輪予選、24年のワールドシリーズと成長を加速させる舞台が用意されている。
「ワールドシリーズで世界と戦って、その先のメダル争いに食い込みたいです。時間は限られている。1分1秒を無駄にせず、後悔することなくピッチに立ちたい。まずはパリ五輪予選。見ている人も緊張させないぐらい、私たちも緊張しないぐらいのパフォーマンスを見せようと思います」
◆大竹風美子(おおたけ・ふみこ)1999年(平11)2月2日、埼玉・川口市生まれ。東京・足立十四中、東京高で陸上に取り組み、7種競技で全国高校総体6位。高校3年時にラグビーに転向し、日体大時代から7人制日本代表で活躍。21年に東京山九フェニックスに入団した。