<テニス:木下グループ・ジャパン・オープン>◇1日◇男子シングルス1回戦◇東京有明テニスの森公園
男子テニスでアジア男子最高位の世界ランキング4位に輝いた錦織圭(36=ユニクロ)が1日、19年間のプロ生活に幕を下ろした。現役最後の大会と定めた木下グループ・ジャパン・オープンのシングルス1回戦で、第2シードで世界8位のフランシス・ティアフォー(米国)に4-6、4-6で敗れた。14年全米オープンでアジア男子初の4大大会シングルス準優勝、16年リオデジャネイロ五輪(オリンピック)で銅メダルを獲得。日本を世界水準へ押し上げた先駆者が、2度優勝した東京・有明で最後の公式戦を終えた。
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日本テニス界で100年に1人と称された錦織が、世界の頂点を追い続けた日々に、別れを告げた。
第1セットは立ち上がりから自身のサーブに苦しみ、第1ゲームでいきなりブレークを許した。それでも、第3ゲームでサイドラインに沿った鋭いストレートを決めるなど調子を上げ、第4ゲームでブレークバックに成功。第5ゲームではこの日初のサービスエースも決め、3ゲーム連取で3-2と逆転した。しかし、第7ゲームで長いラリーの末にポイントを奪われるなどして再びブレークを許すと、その後も緩急を織り交ぜたショットに苦しみ、4-6で落とした。
第2セットは前に出て圧力をかけ、角度をつけたリターンエースを決めるなど攻めの姿勢を見せたが、第3ゲームで先にブレークを許した。その後は鋭いサーブを武器に、第5、7、9ゲームをいずれも1ポイントも失わずにキープして踏ん張った。それでも相手のサービスゲームを崩せず、最後はドロップショットに追いつけずに4-6。ストレート負けを喫した。
最後の舞台を待つ気持ちは、穏やかだった。先月25日の会見では「試合を最後にできるので、楽しみという気持ちが大きい」。主催者推薦で出場する今大会を「本当にボーナスみたいなもの」と表現した。12、14年に制した日本唯一の男子ATPツアー大会。「ここで優勝するってことは、もう格別なものだった」。その場所で、もう一度輝いた。
13歳で盛田ファンドの支援を受け、単身渡米。「世界で戦いたい」と海を渡った少年は、14年全米オープンで日本テニスの歴史を変えた。準決勝で当時世界1位のジョコビッチを撃破。決勝ではチリッチに敗れたが、日本男子が4大大会の優勝を争う姿を現実にした。16年リオ五輪ではナダルを破り、日本勢96年ぶりのメダルを手にした。
フェデラー、ナダル、ジョコビッチ。歴史に名を残す王者たちに、何度も行く手を阻まれた。それでも「あの時期は一番自分の中でも楽しかった」。大きな壁に挑み、敗れては強くなる。「あの人たちがいてくれたからこそ」、テニスへの情熱は増した。
一方で、やり残した思いもあった。ツアー通算12勝、452勝を積み重ねても、4大大会の頂点には届かなかった。「けがとかなかったら続けて挑戦したかった」。17年の右手首負傷、その後のひじや股関節の故障。何度も復帰を果たしたが、失った時間は年単位に及んだ。「悔いの残ることが多くて」。好きなテニスでも、練習やトレーニングへ向かう足が重くなった。
それでも、引退を決めた後の8月、全米オープン予選では「すごく熱い気持ちも取り戻せた」。予選決勝で次世代エースの坂本怜に敗れ、本戦出場は逃しながらも「出しきれた」と思えた。その先にあった母国での試合が、最後の贈り物となった。
ファンに覚えていてほしい姿を問われても、特別なものは求めなかった。「ずっとそうですけど、自分が楽しめれば」。引退後の具体的な活動は決まっていないが、経験をジュニアに伝えたいという思いがある。「日本のテニスがどんどん強くなってほしい」。世界で戦いたいと願った少年は、これからもその道を次の世代につなげていく。
◆錦織圭(にしこり・けい)1989年(平元)12月29日、松江市生まれ。5歳で競技を始め、盛田正明テニスファンドの支援を受けて米フロリダのIMGアカデミーに留学。17歳でプロ転向。08年デルレイビーチ国際選手権で、日本男子史上最年少となる18歳1カ月でツアー初優勝。空中で体をひねりながら放つ「エア・ケイ」も人気に。20年12月に元モデルの山内舞さんとの結婚を発表。現在は2児の父。178センチ。