「ミスターラグビー」と呼ばれた平尾誠二さんが53歳で亡くなってから20日で10年。同志社大の同期で、平尾さんの「盟友、親友」だった日本ラグビー協会の土田雅人会長(63)の机には、笑顔で握手する2人の写真が飾られている。「いつも一緒にいると思っている。彼のためにも、頑張らないといけない」と今も遺志を受け継いでいる。
チームメートとして全国大学選手権3連覇を達成し、指導者としても共闘した。平尾さんが低迷する日本代表の監督に就任する際、条件としたのが土田さんをFWコーチに据えることだった。30代の若さで指揮官、参謀として挑んだ1999年ワールドカップ(W杯)は3戦全敗に終わった。
2019年W杯の日本開催が決まっていた15年6月。旧態依然とした日本協会を変革すべく、そろって理事に就いた。だが、平尾さんを病魔が襲う。「うそだと思った」。16年10月、胆管細胞がんで若くして旅立った。
その3年後、日本中が熱狂したW杯で日本代表を初の8強に導いたのが、ジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ。平尾さんが代表監督時代に「洋魂和才」を掲げ、積極的に起用した外国出身選手の一人だ。今ほど多様性を認める風潮がなかった当時は批判も浴びたが、まいた種は時代が移り変わって実を結んだ。
22年、土田さんは協会トップに就いた。「彼との約束がなかったら受けていない」。かつて改革を目指して語り合った同志の思いを背負い、大役を担う覚悟を決めた。
組織を重んじる自身とは対照的に、個性を重視した平尾さん。「彼の持っている言葉は非常に勉強になった」と懐かしむ。互いを補完し合う関係だっただけに「本当は平尾が会長をやって、僕がサポート役の方がもっと強い組織になる。それは間違いない」という心残りは消えない。
走り続ける原動力となっているのは、闘病中もラグビーの映像を見て、最後まで代表を気にかけていた亡き友の姿だ。日本協会は35年W杯の招致を目指している。「機運も高まっている。何とか決めたい」と、リーダーの決意を示した。(共同)
◆土田雅人(つちだ・まさと)1962年(昭37)10月21日生まれ、秋田市出身。秋田工高から進んだ同志社大で全国大学選手権3連覇。卒業後はサントリー(現東京SG)でプレーし、日本代表1キャップ。監督としてサントリーを3度日本一に導き、日本代表FWコーチも務めた。15年に日本ラグビー協会の理事となり、22年から会長。