日本プロボウリング協会は7日、元プロボウラーの中山律子さんが死去したと発表した。84歳。ここ数年は病気で療養していた。
中山さんは1969年に女子プロ第1期生としてデビュー。70年にはテレ生中継で女子プロ初のパーフェクトゲームを達成し、71年には「さわやか律子さん」のテレビCMで全国的な人気を博すなど、日本に一大ボウリングブームを巻き起こした。
日刊スポーツではかつて「連載この道 500人の証言」と題して中山律子さんを特集していた。95年5月
24~28日に掲載した連載を再掲します。(年齢、肩書きは当時のまま。敬称略)
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中山律子がテレビの画面に現れると、幼児までが、CMソングを口ずさんだ。1970(昭45)年代前半、茶の間の人気をさらったのがボウリングという全く新しいプロスポーツだった。女の色気、女の執念と、半ば冷やかしの声をも受けながら、ブームを起こし、スポーツとして確立し、妻としても母としても投げ続けてきた中山律子さんの挑戦と、同じ時代を生き抜いたライバルたちの軌跡。「女だてらに」がまだ死語ではなかったころの物語を、5回連載します。
中山律子がかすかに「やった」というしぐさを見せたのは、5投目を決めた時。右手をかすかに握ったが、表情はリラックスしていた。
70年(昭45)8月21日、女子プロボウリング東日本月例8月大会は、海野房枝が相手だった。当時東京タワーボウル所属だった中山は27歳、女子プロ競技自体、産声を上げてからまだ2年目だった。
証言387 海野房枝さん(56=セマナ・プロショップ)「私は前半をスペアでつないでいました。スキのない律子さんに、5フレーム目で勝負がつきました。もしかして、という感じはありましたから、私も後は彼女のリズムを乱さないようにと」。
海野のこの無心さが大きな要因となった。両者が淡々と投げた。海野自身も、5フレームからストライクを続けた。
証言388 中山律子さん(52=小田急御殿場パークレーンズ)「意識していなかったんです。並木(恵美子)さんが月例4連勝で、それをストップしなくては、という大会でした。けれど並木さんは決勝までこなかった。それでリラックスしていた。7発目まで、スコアを見ませんでした」。
会場の府中スターレーンには、歴史の予感が充満した。観客も邪魔をすまいと、中山がアプローチに入ってからピンがはじけるまで、だれもが無意識に息を止めた。興奮はその度に高まった。
証言 中山さん「10発目でようやく欲が出てきて、やるぞ、と思いました。それが裏目で、11発目になると、どうにも手が震えて」。
12発目、中山は少し半身になって見送り、それから破顔して、両手を広げて観衆に向き直った。女子プロの公式戦史上初めての300点パーフェクト。歴史はNET(現テレビ朝日)系列「レディース・チャレンジ・ボウル」で、翌日録画中継された。男子は女子よりも2年先にプロ化していたが、中継中の300点は中山が日本初だった。
証言389 男子プロ1期生で通算勝ち星1位(37)の矢島純一氏(49=オークラ・ボウリング・チェーン)「しかも決勝での快挙。律ちゃんには、実力だけでなく、ツキを呼び込み、ものにするカリスマ性があった」。
男子公式第1号を68年(昭43)にマークしていた石川雅章(58)は「セックスチェックしてくれよ」と祝福、並木も駆け寄った。
証言390 2期生の長原京子さん(48)「でも並木さんは正直で、控室で足をバタバタさせ悔しがっていた」。
並木は翌年3月に第2号パーフェクトを出した。
それまで、実力的には常に中山の半歩前を歩いていた須田開代子は、悔しさを押し殺すかのように、わきのレーンで練習を始めた。3カ月後、雑誌「ボウリング・ファン」にこう寄稿した。「同じプロでありながら、目の前で二人にやられたことは、自制することのできない口惜しさとなって私の中に広がりました」。
証言 須田開代子さん(56=日本ブランズウィック)「けれど今思えば、あれで私も刺激されたんです。あれで大ブームが起こったんです」。
直後の8月30日から33日の間に、公認競技6連勝という大記録を達成したのは須田だった。ブーム以上に、相互のプロ意識と競争意識に、中山は火を付けた。【特別取材班】
◆中山律子(なかやま・りつこ)1942年(昭17)10月12日、群馬県草津生まれ。4歳の時、鹿児島へ。県立鹿児島女子高時代はバレーボール部。卒業後、会社員生活を経て、69年(昭44)の第1回女子プロボウリングテストに合格。70年(昭45)8月月例の女子プロ初の公認パーフェクトのほか、第1、5回全日本女子プロなど通算33勝(歴代4位)。70年代にはライバル須田開代子らと社会現象ともいえる大ブームを巻き起こした。04年日本プロボウリング協会会長。12年から同名誉会長。17年殿堂入り。