<開花2>

 錦織圭は、07年10月のジャパンオープンでプロ転向を宣言した。翌年の08年2月。米フロリダで行われたデルレービーチ国際で、世界241位ながら、予選から8試合を勝ち上がり、92年韓国オープンの松岡修造以来、日本男子史上2人目のツアー優勝を遂げた。

 その後の重圧は並大抵ではなかった。選手間で名前が知れ渡り、徹底マークにあった。次戦で、当時世界6位のロディック(米国)と対戦した時、試合中に威嚇された。若手つぶしの常とう手段にあって敗れ、ロッカールームで泣いた。

 5月の全仏予選2回戦で敗れた後、思うようにプレーできないいら立ちから、ついに「テニスをやめたい」と両親にメールを送った。母恵理さんは「いつでも誰でもラッキーは来る」という、錦織の好きな相田みつをの一文を送った。錦織は子どものころから、相田みつをを好み、詩を写していた。「シンプルな言葉の力で、世界が変わるのが魅力だった」。そう話していた。

 立ち直って迎えた同年8月の全米。第2の故郷とも言える米国で、初の本戦入りを果たした。今でも、錦織のラケットを担当するアメアスポーツ・ジャパンの道場滋さん(41)は、同大会で、錦織の変化を感じ取った。3回戦のフェレール戦で「ストリングスが張り上がったばかりのラケットを使っていた」。

 それまで錦織は、使い古したストリングスを好み、張り上げてから時間が経過したラケットを使っていた。2回戦が終わった時に、昼食をともにした道場さんは「張り上げたラケットを使った方がいい」と薦めた。その言葉を3回戦で守り、世界4位のフェレールを倒した。

 この頃、錦織のラケットも規格が定まった。重量320~330グラム。バランスは、ラケットヘッドがやや軽い。それまでは「いろんなところに鉛を貼り、プレーと同じように、遊び感覚でラケットをいじっていた」。用具にも、少しずつプロの自覚が表れた。

 しかし、錦織は右肘の故障で、09年3月から約1年、実戦から遠ざかることになる。10年3月22日、ついに錦織の世界ランキングは消滅した。(つづく)