引退直後のコラム3題から探る「人間・新庄剛志」…ハム1年目に漏らした「気を使いすぎて胃が痛い」 

キャンプから話題を提供し続けてくれる、日本ハムの新庄剛志監督。破天荒の背後にたたえるのは、誠実な人柄です。16年前、引退当時のコラム3題から読み解くことができます。(2006年10月28~30日掲載。所属、年齢などは当時)

ウイラブベースボール

日刊スポーツ

どうしたら、こんなに泣けるんだろう。

日本一を決めた新庄の姿を見て、思い出した。

担当1年目、04年2月14日。阪神キャンプ地の宜野座で行われた練習試合でのことだ。日本復帰後、初の対外試合の相手が古巣。異様に注目度が高かった。福原の初球を三塁線を破る二塁打とした。1打席限定の出場。すぐに球場を離れ、車で約15分離れた日本ハム・キャンプ地の名護へ戻った。もちろん、その後を追った。

ウエートトレーニング終了後、球場を出てきた。隣接する宿舎まで徒歩で5分ほど。キャンプイン直後から、新庄は記者会見でしか話さない、と通達されてはいた。だが、ヒットも打ったし、きっとうれしいだろう。快く取材に応じてくれるだろう、と踏んで、歩きながら取材する「ぶら下がり」で他紙の記者と3人で直撃した。

軽い気持ちで質問をぶつけた。「いい当たりでしたね」「阪神相手に最高のスタートが切れたのでは」などと投げ掛けた。新庄は目線を合わせることもなく、黙って歩いているだけ。表情が、どんどん厳しくなっていくのが分かった。

宿舎にあと少しで立ち止まり、私たちの方を振り向くと、穏やかだが、胸に突き刺さるような鋭い声で言った。

「今、ここで話すけれど、もし話したらこのキャンプ中は、みんなの前でもう会見もしないし、話さないけれどいい?」

記者の仕事としては、ほかを出し抜こうとする場合もある。新庄にしてみれば「記者会見で」とあらかじめ言っている中で、特定の人間に話すことを嫌がったのだろう。なるべく報道陣にも機会を平等に接しようとした。

新庄は日本ハム1年目のキャンプ中に「気を使いすぎて胃が痛い」と漏らしたという。選手へも、周囲へも、気を使い、いつも気持ちを張りつめている。だから最後は張り詰めた緊張感が解け、やっと自分を出せた。

だから、あの号泣があったのだと今は思う。

スクイズ指令に怒髪天 スラパン一丁で登場…16日後に引退表明

体中から炎が出ているように感じた。新庄は今、激怒している−。

3年間、担当した中で1度だけ、そう確信した時がある。今季、4月2日のオリックス戦(京セラドーム大阪)。1−1の3回1死一、三塁、絶好の勝ち越しチャンスだった。打席に入った新庄がサインを確認した。

もう1度出すように促した。また確認した。その瞬間、三塁コーチャーの白井ヘッド兼内野守備コーチをキッとにらみつけて打席に入った。

オリックス戦の3回、セーフティースクイズを決める日本ハム新庄=2006年4月2日、大阪ドーム

オリックス戦の3回、セーフティースクイズを決める日本ハム新庄=2006年4月2日、大阪ドーム

サインはセーフティースクイズだった。プッシュ気味に一塁へ転がして成功。これが日米プロ17年間で最初で最後のスクイズだった。その勝ち越し点をきっかけに大勝。試合後、今まで見たことがない姿を見た。選手食堂に全員集合。その試合で日本通算100号本塁打を放ったセギノールを祝福する、ささやかなセレモニーの席だった。

新庄が一番最後に、輪に加わった。スライディングパンツ1枚で登場した。その模様を見ようとする報道陣の前を通っていった。

いつもは髪形、服装など、ある程度は整った姿しか見たことがない。悪くいえば初めて目にした“だらしない"姿だった。セレモニーの間中、ずっと仁王立ちしていた。終了すると一番最初に立ち去った。

「オーラをコントロールできる」と話したことがある。人に気付かれたくない、空港や繁華街などで消すことができるというオーラは「怒」だったのだろう。

試合後、オリックス担当記者から教えてもらった。新庄がスクイズ後に怒っていたということを、オリックス選手が話していたと。ただ、激しい憤りを表し、また言葉にすることもなかった。

その16日後、電撃的に現役引退を表明した。

04年に日本ハム入りした時、目標は「人の悪口を言わないこと」と公言。確かに、意見はしても“悪口"を聞いた事はなかった。

モットーの野球を楽しむ、を17年間も続けられた裏には、その何倍もの苦い思いがあったのだろうということを、少しだけ知った気がした。

取材時間2時間30分 聞き手の目を見てそらさない

新庄は「いい人」だった。引退用のインタビュー取材に運良く立ち会うことができた。予定は2時間だったが、軽妙なトークに乗せられ、あっという間に過ぎた。

まだ聞きたい質問がいくつか残っていた。約30分間、延長。話を聞いたのは、ある試合後だった。疲れ切った表情で取材場所へ登場した。その間、短い5分ほどの休憩が3度あっただけ、口にしたのは水だけだった。「これで、日刊スポーツは何ページできるの?」。笑いながら軽快に自家用車へと乗り込み、去っていった。

約15万人分の「引退撤回して署名」に驚く新庄=2006年9月27日

約15万人分の「引退撤回して署名」に驚く新庄=2006年9月27日

インタビューの間、ずっと私の目を見ていた。そらすことがなかった。こちらは年に1ケタ、本当に数度しか着ないスーツ姿で「真剣勝負」に臨んだ。緊張しているのを見透かされたように、最初に会った途端「いつもはスーツじゃないですよね?」。何げないひと言から2時間30分が始まった。

新庄とは3年間、ほぼ記者会見での質疑応答くらいしか、直接、言葉のキャッチボールをする機会がなかった。素直に「前夜は眠れないくらい緊張しています」と答えると「いつも会っているじゃん。緊張しないでください」。

本来ならこちらがお願いした立場で、うまく場の雰囲気をつくらなければいけない。だがそんな気持ちをつかむ「会話」で勢いに乗せられ、時間は瞬く間に過ぎた。記事にはできないオフレコ・トークも連発。今、考えれば全力投球のリップサービスだったと思う。

ほかの人が傷つく恐れがあるようなデリケートな質問は、じっくりと考えてから「それはやめましょう」と制された。日本ハム選手たちが「優しい」という人柄に少しだけ、初めて触れられた気がした。

取材後、テープレコーダーに録音したインタビューを文字に起こした。記事掲載用の12字詰めの原稿用ソフトで、ちょうど2300行。新庄のひと言、ひと言に思いがこもっている気がして、その1文字、1文字を忠実に起こそうという気持ちになった。

実は新庄はその時に、今季のチーム成績、自らの引き際はこうなる、と話していた。新庄が予言した自分のラストは日本一ではなかった。でも、その部分だけは記事にできなかった。少しだけ最後に触れることができた生身の「人間・新庄剛志」を知る1人として、ドラマチックな奇跡が起きるのでは、と予感したから。