【履正社から東洋大姫路 岡田龍生の流儀①】20人ほどの部員が困り果てている…顧問不在の報に立ち上がった35年前 

大阪の履正社高校を夏の甲子園優勝に導いた岡田龍生監督(60)。2022年3月で退任し、4月から母校の東洋大姫路(兵庫)で指揮を執っています。履正社を全国有数の強豪校に作り上げ、オリックスT―岡田やヤクルト山田ら、プロにも人材を送り出しました。35年の在任期間を、5回連載で振り返ります。(敬称略)

高校野球

堀まどか

2月末には、梅が香る。3月も半ばになれば、桜のつぼみがほころぶ。JR京都線・茨木駅から車で約20分。四季折々の花に囲まれた場所に、履正社硬式野球部の茨木グラウンドがある。一、三塁側ベンチに野球用具が備蓄された倉庫。日当たりのいい小部屋では、投手陣がアイシングを行い、肩、肘を休める。プロ入りした卒業生らの尽力もあり、打撃場もできた。1987年(昭62)から部を率いた岡田龍生が、周囲の協力を得ながら、1つ1つを造りあげてきた。

★第102回大会で日本一

白球を半分に割ったようなモニュメントに、甲子園大会の戦績が記してある。97年の夏から始まった履正社の甲子園史は、22年後の夏、頂点に届いた。

2019年8月22日、第102回大会の決勝戦。エース奥川恭伸(ヤクルト)を擁する星稜(石川)を下し、初の全国制覇を成し遂げた。岡田は、まず感謝の言葉を満員のスタンドに伝えた。「卒業生、保護者、家族の協力のおかげで日本一を取れました」。

履正社の創部は、福島商時代の1922年(大11)。岡田の監督就任は87年。履正社野球部の歴史は3分の1以上で、監督・岡田の歴史に重なる。

岡田自身も甲子園球児だった。東洋大姫路で主将を務めた3年春、第51回選抜大会に出場。準決勝まで進み、牛島和彦(元ロッテ)―香川伸行(元ダイエー)のバッテリーを擁した浪商(現大体大浪商)に敗れた。

★東洋大姫路―日体大―鷺宮製作所―桜宮高

卒業後は教員を志望し、日体大で学んだが、採用試験に不合格。社会人野球の鷺宮製作所に籍を置いた。それでも教員を志す思いは変わらなかった。生まれ育った大阪に戻って、桜宮が体育の講師を探しているという情報をつかんだ。

「あとで気付いたことなんですけど、体育科の人員の状況から見て、桜宮の体育の先生方は『女性の先生を雇ってくれ』と言われていたらしいんです。でも、来たのがぼくやった」

年老いた兄と妹は、力仕事ができる男の子を施設から引き取るつもりでいたのに、2人の前に現れたのは、やせっぽちの赤毛の女の子だった。L・M・モンゴメリーの代表作「赤毛のアン」の逆を思わせる話だ。

第51回選抜高校野球開会式。東洋大姫路の先頭で行進=1979年3月27日

第51回選抜高校野球開会式。東洋大姫路の先頭で行進=1979年3月27日

ただ、利発なアンがカスバート兄妹の心をつかみ、なくてはならない存在になったように、岡田と桜宮高の出会いは指導者としてのキャリアの基礎になり、やがては高校球史を彩る強豪校誕生につながっていく。

岡田は桜宮の講師になり、野球部のコーチも務めた。後に阪神監督となる矢野燿大らを教えた。

授業、部活の指導現場に籍を置きながら、再度、採用試験に挑戦するつもりでいた。だが、ある高校の硬式野球部の窮状が、岡田のもとに飛び込んできた。話を伝えてきたのは、桜宮に出入りする運動具店のスタッフだった。

★運動用具店でのひと言

「その人が、福島商時代の卒業生だったんです。自分の母校の野球部が半年くらい監督不在で、活動ができる状況じゃないと」

柔道が専門の教員が野球部顧問として部にいるものの、満足な練習はできず、3学年合わせて20人ほどの部員が困り果てている…。後輩の窮地を心配した運動具店スタッフの紹介で、岡田は履正社の関係者と会った。

野球部を強くしてくれ、といった話は一切なかった。ただ体育の教員、そして野球部監督として「うちに来てくれるか」と問われ、岡田も応じた。

日体大の学生時代から描いた夢が、かなうにはかなった。ただ、自身が経験してきた部活動とはかなり異なる現場に、26歳の指導者は向き合うことになった。(つづく)