【追憶 桑田真澄⑥】清原「投げえよ」をかたくなに拒否 直球&カーブ極めてつかんだ最後の夏

PL学園の桑田真澄。すべての野球好きが胸躍る響きです。優勝、準優勝、準優勝、4強。あと1歩を突き抜けるべく、断固たる決意を持って最後の夏に向かいます。全10回連載の第6話。(2017年6月8日掲載。所属、年齢などは当時。文中敬称略)

高校野球

堀まどか

★目標からの逆算

PL学園のエース桑田は、高校最後の夏を迎えた。

2年春夏は甲子園準優勝。3年春は準決勝で伊野商・渡辺智男に完敗した。

そして1985年(昭60)の夏。大阪大会でピンチになると、しばしばこんなシーンがマウンドであったという。

「(カーブ以外の変化球も)投げえよ。絶対に抑えられるから」と清原和博が言う。

だが、エース桑田は首を振り続けた。清原が苦笑しながら一塁へと帰る。「頑固やなぁ」とつぶやきながら。

桑田は直球とカーブだけで勝負していた。

★ある葛藤

その夏を迎える中、桑田は先を見据えた考え方を自分に課していた。

桑田僕が高校野球で学んだのは、単に投げ込みや走り込みに没頭するのでなく、目標から逆算して考えることです。あのころから、甲子園で再び優勝するには何が必要なのかを逆算して考え始めたんです。

身長174センチで、体格に恵まれていたわけではない。

自身の体力を考えれば、投げ込みや走り込みといった猛練習は、甲子園優勝に向けた最良の準備ではなかった。

桑田連戦になると疲れがたまって、思うような投球ができない。優勝するには大阪では4連投、甲子園では3連投。その日程をクリアするにはどうしたらいいかなと逆算する。

行き着いた答えは、球数の見直しだった。桑田はPL球場の外野フェンス沿いを走りながら、野手の打撃練習を観察した。

内野ゴロや外野飛球になる確率が高い投球コースを見極めるためだった。

甲子園で投球する桑田=1985年8月

甲子園で投球する桑田=1985年8月

だが、ある葛藤も当然のように抱えていた。

桑田 練習ではスライダーとかフォークも投げていました。紅白戦で投げたら、面白いように空振りを取れた。でも、高校時代は直球とカーブしか投げないと決めていた。これで勝てないなら、オレはプロでは通用しないと。プロでエースになりたかったから、あえて高校時代は直球とカーブしか投げなかった。

★キーワード「バランス」

日本一への思いは清原と同じだった。一塁に戻る清原を見ながら桑田も悩んだ。

桑田やっぱり優勝したい。ピンチを迎える度に、他の変化球も解禁すべきか、すごく悩んだこともありました。でも高校野球も大事ですが、より大事なゴールはその先のプロ野球だと考え、思いとどまりました。

直球とカーブだけで、桑田は全国の強豪に立ち向かった。

桑田球種を2つだけにしてよかったことは、どのコースに、どのタイミングで直球を投げたら1球でフライを打ち上げるとか、どのカウントでカーブを投げたら内野ゴロで打ち取れるとか、打者を観察する習慣が養われたこと。効率的に打者を打ち取る考え方は、その後の野球人生にも生きました。

直球とカーブの2つの武器だけで、桑田は高校最後の夏を全国制覇で飾った。

PL学園は初戦で東海大山形を29-7と圧倒。3回戦では津久見に完封勝利。準々決勝で高知商を6-3で退け、準決勝は甲西に15-2。

決勝は宇部商との対戦だった。松山秀明のサヨナラ打で決着。

大阪予選で優勝し、抱き合う桑田(左)と清原=1985年7月31日

大阪予選で優勝し、抱き合う桑田(左)と清原=1985年7月31日

4番清原和博は2本塁打を放った。桑田は6安打で完投。高校時代の甲子園ラストマウンドは勝利で彩られた。

桑田甲子園で優勝するという目標を立てて、それに向かってベストを尽くすプロセスが僕は大好きだった。優勝したから偉いとか、できなかったからダメとは思わない。本当に価値があるのは結果に向かうプロセス。甲子園で優勝するには何が必要かと考え続けた。高校時代は僕の野球選手としても人間としても、原点を作り上げた3年間。キーワードはバランスでした。僕は短時間集中型の練習しかしなかった。大学に行きたかったから、授業中は一生懸命勉強しました。短時間で練習して、十分に栄養と睡眠を取って、学校では勉強したんです。高校野球は目の前のことに夢中になりがちだけど、僕は冷静にバランスを考えていました。

戦後最多の甲子園20勝投手の誕生だった。(つづく)