【あの日あの紙面】西城秀樹さんの死から4年 6ページ追悼号で“ヒデキ”を思い返してみたい

ヒデキが、西城秀樹さんが、63歳の若さで天に召されて4年がたった。2018年5月16日の深夜のことだった。そのパフォーマンスと歌声はいまだに心から離れない。5月18日付の日刊スポーツ(東京最終版)は、とても悲しい知らせなのに、どこか明るさがある、秀樹さんらしい6ページだった。当時の紙面と記事で振り返る。

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笹森文彦

2018年5月18日付の日刊スポーツ最終面。音楽担当の笹森記者のベテランらしい愛に満ちた追悼文を掲載

2018年5月18日付の日刊スポーツ最終面。音楽担当の笹森記者のベテランらしい愛に満ちた追悼文を掲載

元祖の数々、スタンドマイク、スタジアムライブ、武道館、クレーン車

◆記者が西城秀樹さんを悼む◆

<歌詞> 太陽に向かい 歩いてるかぎり 影をふむことはない そう信じて生きている

秀樹さんの名曲「若き獅子たち」(作詞・阿久悠、作曲・三木たかし)の歌詞。常に前を見て、挑戦し続けた秀樹さんの生きざまであり、日本のエンターテインメントは、間違いなく、太陽を失った。

音楽の世界で今では「普通」の数々は、秀樹さんが元祖である。72年に「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズでデビューすると、長身を生かした派手なアクションと絶叫歌唱で魅了した。音楽は「聴かせる」から「見せる」にシフトした。「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」(79年)では、自ら考えた振りを一緒に行う観客参加のスタイルを生んだ。

「薔薇の鎖」(74年)では、アルミで軽量化された特注のスタンドマイクを振り回すパフォーマンスを披露した。以後、ロック歌手を中心に定番となった。スタジアムライブも秀樹さんが初めて大阪球場で行った。ライブ直前にラジオ番組で「(演出のため)懐中電灯を持参して」と呼びかけたことが、ペンライトの誕生につながった。

75年には日本武道館で、日本人ソロアーティスト初のコンサートを開催。80年の後楽園球場のライブでは40メートル以上のクレーン車で登場する演出に初挑戦した。87年に同球場で日本初公演を行った故マイケル・ジャクソンさんのスタッフが「西城のスタッフを借りたい」と申し出た。

74年に「傷だらけのローラ」でNHK紅白歌合戦に初出場した際、番組史上初のアイマスク着用で登場した。初出場歌手が顔を隠すのは異例だった。さらに二酸化炭素のボンベから白煙を噴き上げる演出も紅白史上初で度肝を抜いた。

かつて「僕は洋楽も大好きで、いろいろと参考にしました。日本でもやったら面白いんじゃないというものを、すべて僕発でやりたかったんです」と話していた。

太陽のように明るく、気配りの人でもあった。ホテルでの誕生会に呼ばれた際、新参者の私は離れた席に1人で座っていた。そんな私を見つけた秀樹さんは重鎮の方々との談笑を中断して、隣の席に座り「いつもこんな感じです。気楽に楽しんでくださいね」と話しかけてくれた。01年の結婚披露宴では、引き出物の1つは、秀樹さんがCM出演していた「バーモントカレー」(ハウス食品)。パッケージには新婦と2人の写真が印刷され「超甘口」と書かれていた。「いい記念ですね」と言うと、自慢げにウインクしてくれた。

前向きさは脳梗塞で倒れた後も変わらない。ヘレン・ケラーや松下幸之助氏の本を音読して言語障害のリハビリに努めた。

秀樹さんから、もう何年も必ず自宅にバースデーカードが届く。私の誕生日は5月31日。2週間後、ポストを確認するのがつらい。【笹森文彦】

20面の芸能面の見出しは「明星、平凡、水泳大会」。同世代共通の懐かしいアイコンだ。

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「傷だらけのローラ」「Y.M.C.A.」

◆当時の新聞記事のニュースリード◆「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などのヒット曲で知られ、ドラマやバラエティー番組でも活躍した歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき)さん(本名・木本龍雄=きもと・たつお)が5月16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去したことが17日、分かった。63歳。先月のコンサートで歌声を披露したばかりだった。「ヒデキ」の愛称で幅広い世代に親しまれたパワフルなステージはもう見ることはできず、旧知の歌手仲間はショックを隠せない。葬儀・告別式は26日に東京・青山葬儀所で営まれる。

◆西城秀樹さんの略歴◆(さいじょう・ひでき)本名・木本龍雄(きもと・たつお)。1955年(昭30)4月13日、広島県生まれ。72年3月、「恋する季節」でデビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。73年に「ちぎれた愛」で日本レコード大賞歌唱賞を初受賞し、以降3度受賞。75年に日本人ソロ歌手として初の日本武道館公演を行った。映画「愛と誠」など、俳優としても活躍。2001年に美紀さんと結婚し、2男1女をもうける。03年、11年と2度、脳梗塞発症も、15年には還暦記念アルバムを発売、16年にはデビュー45周年記念コンサートも行った。趣味はモダンアート、特技はドラム、水泳。身長181センチ、血液型AB。18年5月に死去。

21面の芸能面。「秀樹カンゲキ」。ハウスバーモンドカレーのCMも懐かしい

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◆カレーライス国民食化◆西城秀樹さんは、カレーライスを世の中に広めた功労者だった。デビュー2年目の1973年(昭48)「ハウス バーモントカレー」のCMに初めて起用された。5枚目のシングル「情熱の嵐」が大ヒット。若い女性を中心に得ていた爆発的人気にあやかった。「ハウスバーモントカレーだよ」の歌い出し、「ヒデキ カンゲキ!」の決めぜりふが浸透。持ち歌の振り付けなどもCMに入れ、親しみやすさを持たせた。

刺激物が入って辛く、大人の食べ物というイメージだったカレーを、子どもにも食べてもらいたいとの願いをCMに込めた。CM出演は85年までだったが、同商品は63年発売から半世紀あまりで、700億食以上を売り上げた。秀樹さんの貢献度は絶大だった。

73年には、ボンカレーの大塚食品は「3分間、待つのだぞ」のCMを流し始めた。当時流行した時代劇「子連れ狼」のパロディーを落語家の笑福亭仁鶴に演じてもらい、注目された。ライバル社が人気タレントをぶつけ、「CM競争」は激化。他社も含め、カレーCMには郷ひろみ、東山紀之、王貞治さん、イチロー、小野伸二ら、芸能界やスポーツ界の時の人が起用されてきた。国民食と人気者のタッグは、秀樹さんが先駆者だった。

そんな功績にハウス食品グループは「大変お世話になりました。(西城さんの)おかげもあって今日、カレーライスが国民食とまで言われ、皆様に愛されるようになりましたものと、大変深く感謝しております」とのコメントを寄せた。

22面の芸能面。新御三家、郷ひろみと野口五郎はヒデキを語る上で外せない人

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◆新御三家◆16日に亡くなった西城秀樹さんは野口五郎、郷ひろみとともに「新ご三家」と呼ばれ、一時代を築いた。17日、訃報を耳にした野口は混乱した。所属事務所を通じて「あまりにも突然で、今は言葉が見つかりません。気持ちの整理がつくまで少し時間をください。申し訳ありません」とだけコメントを発表した。郷は何とかコメントだけは発表したが、マスコミの前には姿を現さなかった。「同世代として、とても残念です。ボクの中で長男は(野口)五郎、次男は秀樹、末っ子がボクでした」と3人を兄弟に例えた。「秀樹が先に逝ってしまったこと、とても悲しい気持ちでいっぱいです。デビュー当時、右も左もわからなかったボクに『ひろみ、何かわからないことがあったらオレに聞いてくれる』と親身になってくれたこと、一生忘れません」と、兄との別れを悲しんだ。26日の葬儀では、「長男」野口が弔辞を読むことが検討されている。

同学年の「新ご三家」は、70年代にトップアイドルとして競い合い、それぞれに相違点と共通点を持ちながら対照的なキャラクターを光らせた。当時、芸能誌として影響力があった月刊「平凡」や「明星」の人気投票で上位を独占。60年代に活躍した橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫の「ご三家」に続く、新ご三家と呼ばれるのは自然だった。

秀樹さんはリズム感、演技力で郷と歌唱力、音楽性で野口とトップを競う図式だった。3人そろって番組共演したのはデビューから2年後で、報道陣が100人も集まる事件となった。

歌番組のフジテレビ「夜のヒットスタジオ」は、70年代から80年代にかけて3人のうち少なくとも1人が必ず出演するのが習わしだった。歌番組に欠かせなかった新ご三家から、秀樹さんが旅立ってしまった。

23面の芸能面。日刊スポーツが訃報に6ページも割くのは極めて稀なことだ。それほど、新聞の作り手たちがヒデキの死にショックを受けた

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◆ヤングマン誕生秘話◆元マネジャーで代表曲「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」の日本語詞を手掛けた天下井(あまがい)隆二さんが、同曲の誕生秘話や秀樹さんの飾らない人柄を明かした。

天下井さんは1974年に秀樹さんのマネジャーに就任。83年に独立した際も行動を共にし99年まで支え続けた。

79年正月コンサートの打ち合わせで、「YOUNG MAN」の原曲で、米ポップスグループ「ヴィレッジ・ピープル」の「Y.M.C.A.」をアンコールで披露する話が浮上した。秀樹さんも「これ、やろうよ」と乗り気で、日本語詞を手掛けた経験がある天下井さんが日本語詞を頼まれたという。「楽しさを心掛けましたね。時間がなく、スタジオの屋上で1時間で書き上げました」。

正月コンサートのアンコールで盛り上がり、急きょレコード化が決定。秀樹さんはヒットに自信を持っていたという。生産が間に合わず、神奈川県海老名市の工場に出向き、従業員50~60人が集まる中、秀樹さんが「残業になりますが、お願いいたします」と頭を下げた。ミカン箱に乗って「YOUNG MAN」を歌うと、従業員も「頑張るよ ! 」と張り切ったという。だが、苦労もあった。原曲が同性愛者の歌だけに、最初、天下井さんの元に「私の秀樹にオカマの曲を歌わせるなんて」と、熱狂的なファンからカミソリ入りの脅迫状も届いたという。

秀樹さんの人柄を「明朗快活。気さくな人でした」と振り返った。ある音楽番組で歌手の若手マネジャーが衣装を忘れ、こっぴどく怒られた後、そっと「頑張れよ」と励ましていたという。「誰に対しても態度を変えず、接していました。相談役みたいなところもありましたね」。石原裕次郎さんや美空ひばりさんにかわいがられる一方、近藤真彦や薬丸裕英、石川秀美、河合奈保子らの相談にも乗っていたという。

歌詞を徹夜で覚えるなど、仕事にストイックだった。モテたが、交際相手にいちずで、浮気するようなことはなかったという。また、子供好きで、「バーモントカレー」のCM撮影現場では、出演した子供たちの楽屋に行き、遊んであげていたという。

天下井さんには1つ心残りがある。「(87年NHK大河ドラマ)『独眼竜政宗』の主演のオファーが来たんですよ。でも独立したばかりだったから、会社がつぶれてしまうとお断りしたんです。(秀樹さんも)納得していたのですが…。借金してでも受ければ良かったと思っています」と、残念そうに振り返った。