萩野公介27歳の引退  孤独だった天才が「後ろを見て」最後に気づいたこと

なぜスポーツはこうも人の心を揺さぶるのか。その答えがここにある…日刊スポーツが贈る珠玉の物語。

競泳の萩野公介さんが、2021年東京オリンピックを最後に引退しました。当時まだ27歳。その5年前のリオデジャネイロ・オリンピックで金メダルを獲得した天才スイマーに何があったのでしょうか。壮絶な日々をひもときます。

(2021年10月5日掲載 所属、年齢など当時)

ストーリーズ

益田一弘


誰もが驚くような号泣だった。7月29日、東京アクアティクスセンター。競泳男子の萩野公介(27=ブリヂストン)は、東京オリンピック(五輪)200メートル個人メドレー準決勝を突破して泣いた。ぬぐっても、ぬぐっても、涙があふれる。16年リオデジャネイロ五輪で金、銀、銅を得た天才スイマーが、たった1本の決勝進出に「うれし涙以外の何ものでもない」と言った。その胸に去来したものは何だったのか-。

「神童」が初めて見せた涙

5年前の夏、頂点を極めた。400メートル個人メドレー金、200メートル個人メドレー銀、800メートルリレー銅。当時は21歳。東京五輪は個人メドレー2冠、得意の200メートル背泳ぎの金メダルも視野に入っていた。日本競泳界初の3冠。北島康介さえもなしえなかった快挙の予感が確かにあった。

16年リオ五輪 ブラジルから帰国し、3つのメダルを手に記念撮影する萩野公介

16年リオ五輪 ブラジルから帰国し、3つのメダルを手に記念撮影する萩野公介

未来に影が差したのは、リオ五輪後の16年9月、右肘手術だった。レースや負荷の高い練習をすれば痛みが出て、氷袋で肘をぐるぐる巻きにすることもあった。自由形の伸びやかさが少しずつ失われた。水泳についてあっけらかんと話す性格だが、肘の状態については「言いたくないです」と言葉を濁した。しかし、これまでの貯金もあって、日本選手権や国際大会でメダルをとることはできた。

歯車が狂ったのは、17年世界選手権ブダペスト大会だった。右肘手術から急ピッチで仕上げたため、個人メドレーで400メートルより距離が短い200メートルに照準を合わせた。しかし銀メダル止まり。経過を考えれば、悪くない結果だが、敗北に落ち込んだ。もともと完璧を求めすぎ、わざわざ自分で不安を見つけてはリズムを崩す悪癖を持つ。「この前、土曜日に悪いことを数えたら13個あった」という軽口が冗談に聞こえないこともしばしば。不穏な兆候が漂い始めていた。

衝撃が走ったのは、翌日の800メートルリレー。第1泳者で精彩を欠き、仲間の足を引っ張って、リオ五輪銅メダルの日本は5位。下を向いてプールサイドを引き揚げる途中で事件が起きた。幼少期からのライバルで仲がいい瀬戸に「公介、笑えよ。結果は気にせず、笑顔のほうがいいよ」とねぎらわれた。張り詰めていた気持ちが切れた。立っていられず、四つんばいになって泣き崩れた。

それは、小学生時代から数々のジュニア記録を樹立し「神童」と呼ばれた萩野が初めて人前で見せる涙だった。一夜明けて感想を聞かれた瀬戸が「びっくりした」と目に涙を浮かべたほどの崩れ方だった。

「泳いだらというか、動いたら死ぬ」

「死ぬ気で練習しなきゃ」

ブダペストでの金メダルなしがこたえた。もともと練習の強さ、耐久度は抜群だった。どんなハードメニューも黙々とこなして、平井伯昌コーチが「まるでロボット」とあきれるほど。そんな練習の虫がさらにのめり込んだ。

18年1月2日、その真面目さが裏目に出る。年末年始の強化合宿で無理を重ねた。平井コーチから「顔が真っ白だぞ」と練習を止められた。高熱と疲労。同4日に病院で検査を受けると肝臓の数値が異常だった。医師からは「高齢者なら亡くなっている。競技人生どころか、劇症化すれば、命の危険がある」と告げられた。

表向きは「体調不良」とされたが、実は3週間の入院、うち2週間は絶対安静だった。しかし休むことに罪悪感を感じてしまう。「ここで負けちゃいかん」と病院で勝手にバイクをこいでまた発熱。医師に「本当に泳いだらまずい。泳いだらというか、動いたら死ぬ」と厳しく警告された。

ベッドで天井を眺める日々。慰めだった多くの本の中で、1冊が記憶に残った。1902年(明35年)青森の陸軍歩兵連隊による八甲田山雪中行軍遭難事件。大隊長の指示に、中隊長が意見できず、210人中199人の死者を出した。萩野は「僕、中隊長の気持ちがわかるんです」とつぶやいて、知人を絶句させた。期待に応えたい、課題をクリアしたい。そのために体の異常にさえ、目をつぶった。萩野は、のちに「あそこぐらいから、しんどかった。すごく響いた」と、病院での日々を振り返った。

「合宿にいけません」

退院からわずか1カ月強の練習で、4月の日本選手権は瀬戸を下し個人メドレー2冠。「キング・オブ・スイマー」は健在だった。一方で「気持ちも体もしんどい部分があります」と、200メートル自由形を棄権した。この夏、パンパシフィック選手権、ジャカルタ・アジア大会で優勝なし。13年日本選手権で史上初の5冠など、泳げば1位という存在感は薄らいでいった。

18年パンパシフィック水泳 男子200メートル個人メドレー決勝でタイムを確認する萩野公介

18年パンパシフィック水泳 男子200メートル個人メドレー決勝でタイムを確認する萩野公介

19年2月16日。池江璃花子の白血病公表から4日後、萩野の心身にも危機が訪れた。コナミ・オープン400メートル個人メドレー予選、最後の自由形でみるみる失速した。五輪王者が、国内の、しかも予選で次々と抜かれて、4分23秒66の全体7位。自己ベスト4分6秒05から17秒61の遅れ、自身の中学記録4分16秒50にも及ばない。プールから上がった萩野の体は右側に傾いて、その足取りはふらついた。

ひざの故障など、何らかのアクシデントとしか考えられない失速ぶり。「手が震えるような感じ」と寒けを訴えて、決勝は棄権。平井コーチの指示で、病院に直行して血液検査を受けた。18年正月には肝臓の数値異常もあった。しかし検査で異常はなかった。

翌17日には心配する平井コーチに「昨日よりも体が楽です。4月の日本選手権は代表選考だから気持ちが入ると思います」とメッセージを送った。この時点でまだ周囲の期待に応えようとしていた。

2日後の2月19日はスペイン高地合宿への出発日だった。4月の日本選手権で代表入りして、19年世界選手権で金メダルを獲得すれば、東京五輪代表に内定することが決まっていた。五輪切符への最短ルートに向けて、タフな高地合宿で立て直しを図るはずだった。しかし出発前夜、萩野は平井コーチに電話した。

「合宿にいけません」

2019年2月19日早朝。成田空港の一角は騒然としていた。萩野が、日本選手権前のスペイン高地合宿に行かない。平井伯昌コーチは「『頑張りたい自分と、ゆっくりしたい自分がいる』ということ。子どものころから張り詰めてやってきたから、ゆっくりするのもいい。何のためにやっているか、考えるチャンスでもある」。同じ個人メドレーの大橋悠依は「少し寂しい気もする」と表情を曇らせた。

萩野は国内に残り、母校東洋大の学生と練習した。しかし気持ちは上向かない。得意の背泳ぎでまずまずのタイムが出ても、不満が募る。関係者に「金メダルじゃなくて、銅メダルでもいいじゃないか」と完璧主義をたしなめられても、受け入れられない。そのまま3月に日本選手権欠場、期限なしの休養を発表した。

「平井先生に、水泳が嫌いになりそうです、と自分の口からいったことがショックだった」。

「引退しようと思えば、引退できた」

小学生時代から「神童」と呼ばれて、数々のジュニア記録を樹立した。将来の目標を聞かれて「世界で活躍できる選手になりたい」と答えてきた。しかしそれは本心ではなかった。「周囲の大人に言われて、そう答えたほうがいいのかなという程度だった」。高3の12年ロンドン五輪銅メダルで同世代にとって、近寄りがたい存在になった。

大学時代、水泳仲間と打ち上げにいくことはなかった。不調時はヘッドホンをして閉じこもり、先輩から「今日1日、ハム(萩野)が誰ともしゃべってない」と心配されたこともある。周囲に弱みを見せることは萩野にとって“敗北”だった。だが右肘手術で狂った感覚は戻ってこない。「自由形の泳ぎ方を忘れた。夜も眠れない」。助けを求めることができなかった。

「自分が『こうありたい』という理想と現実の結果の差が、少しずつ自分の中で開いていき、モチベーションを保つことがきつくなっていきました」

所属先に休養を報告すると、その足で理髪店に行って丸刈りにした。関係者に「日本にいてもしょうがないから、ドイツにでもいったら」と勧められて1人旅に出た。街角でフードをかぶり、いつもは口にしない油分の多いフライドポテトをほおばった。イタリア・カプリ島など大好きな世界遺産を見て回った。ささやかではあるが、それが最大限の“反抗”だった。

旅の途中で、嫌な自分を、紙に記して破って捨てた。強がる自分、思っていることと反対のことを口にする自分-。故郷・栃木県の恩師、前田覚コーチには「自分の引き際は自分で決めろ」と言われた。「引退しようと思えば、引退できたと思う。でも今じゃない」。3カ月間、自分で考えてプールに戻った。

「レースが怖い」

6月頭、最初に200メートル個人メドレーを泳いだ。自身の日本記録1分55秒07の倍近い3分45秒もかかった。女子選手にあっさり抜かれて、その姿が、はるかかなたに見えた。「動いてなきゃ、そうなるよな」と笑いが出た。同6日の復帰会見では「東京五輪での目標は、ずっとぶらさずに複数種目での金メダル」とリオ五輪後と同じ目標を掲げた。しかし、その言葉が再び萩野を苦しめることになる。

19年復帰会見 「5キロ太りました…」と笑顔で語る萩野公介

19年復帰会見 「5キロ太りました…」と笑顔で語る萩野公介

3カ月リフレッシュすれば、すべて解決するほど、現実は甘くなかった。復帰後も状態は一進一退だった。これまで気にもとめず、存在すら知らなかった日本代表候補入りの基準タイムを切ることができない。資格がないため、代表活動の拠点ナショナルトレーニングセンターに入れない日々が半年近く続いた。

20年2月には因縁のコナミ・オープンで「レースが怖い」という不安がぶり返した。練習の泳ぎが、試合でできない。練習でも、タイムトライアルでレース水着を着ると、緊張で泳ぎが崩れた。東京五輪代表からの落選が現実味を帯びる中、コロナ禍で東京五輪が1年延期された。同6月には「もし(予定通り)東京五輪がきていたら、ちょっと厳しかったかなと思っています。金メダルが難しいとかではなく、もっと下のレベルだった」と潔く認めた。

20年コナミオープン男子 400メートル個人メドレー決勝で4位に終わった萩野公介はぼうぜんと天を仰ぐように引き揚げる

20年コナミオープン男子 400メートル個人メドレー決勝で4位に終わった萩野公介はぼうぜんと天を仰ぐように引き揚げる

泳ぎの改善は、先が見えない迷路のようだったが、精神面で救われる出来事があった。19年9月にシンガー・ソングライターmiwaと結婚、同年末には第1子を授かった。練習場に家族を連れてくるなど、少しずつ仲間たちに金メダリスト以外の顔を見せることができるようになった。休養中は中断していた地元栃木県のラジオ番組を再開して、音声アプリで発言もした。少しずつ自分の考えを発信するようになった。

「何かの本を読んだ、誰かのアドバイスを聞いた。ひとつのきっかけでずっと右肩上がりなんて、そんな都合がいいこと、人生にはないですよ。ちょっとずつ。時間が必要だった」

21年3月、大きな決断を下した。五輪連覇がかかる400メートル個人メドレー断念を決めた。「もう4分7秒台を出すような練習はできないかもしれない」。同種目の優勝者は「キング・オブ・スイマー」の称号を得る。それを捨てて、比較的安定していた200メートル一本に絞った。

2種目で代表を狙って共倒れすることを避けた。「見えを張るのは疲れました。今思えば、世間体、こうでないといけない、という水泳と関係ないことを考えていた」。やっと「複数種目での金メダル」から、解放された。休養から2年がたっていた。

4月の日本選手権で200メートル個人メドレーの代表ラスト1枠をつかんだ。瀬戸大也と一緒に東京五輪で泳ぐ資格を得た。

「今の自分の姿を見せたい。結果も大事だけど、それがすべてじゃない。休養はアスリートとしてはないほうがよかったかもしれないが、でも僕には休みが必要だった」

21年日本選手権 男子200メートル個人メドレーで東京五輪代表内定を決めた2位萩野(左)は優勝の瀬戸と喜び合う

21年日本選手権 男子200メートル個人メドレーで東京五輪代表内定を決めた2位萩野(左)は優勝の瀬戸と喜び合う

あとは3度目の五輪で、ベストを尽くすだけだった。

それでも、まだ心は揺れた。5月のジャパン・オープンは休養の原因となった19年コナミ・オープンと同じ千葉県国際総合水泳場。あの時の記憶がよみがえった。200メートル個人メドレーで4位。胸回り、胸郭の違和感を訴えたが、平井コーチは「前の日まで絶好調だった」と首をひねった。また、心と体がずれ始めていた。

6月の長野・東御合宿では再び不安に襲われて、宿泊施設の自室を出られなくなった。深夜3時に平井コーチに電話した。1週間、練習できなかった。長野に駆けつけた家族と牧場で過ごして立て直した。ぎりぎりの綱渡りは五輪本番まで続いていた。

「メダルとか、これっぽっちのもの」

東京五輪は予選、準決勝で敗退する有力選手が続出。日本勢は午前決勝にターゲットを絞っていたが、体が動きやすい午後の予選で海外勢の記録レベルが上がった。しかも予選から半日後の翌日午前には、準決勝がある。決勝に進むためには、高いレベルの記録を、わずか12時間で2本そろえる必要があった。瀬戸大也、松元克央、佐藤翔馬らメダル候補が次々と決勝を逃していた。

萩野は覚悟を決めていた。「準決勝、決勝に残るのは今の僕には簡単ではない」。敗退のがけっぷちはすぐ目の前にあった。土壇場でまた不安に襲われるかもしれない。心が体を裏切るかもしれない。それは本人にもわからなかった。

運命の7月29日。ただ挑戦者として泳いだ。そして届いた。準決勝全体6位通過。隣には瀬戸がいた、スタンドには平井コーチがいた。もう虚勢を張る必要はなかった。「神様がくれた贈り物としか思えないぐらい幸せ」と涙があふれた。

20年東京五輪 男子200メートル個人メドレー決勝後、笑顔で瀬戸大也(右)と肩を組む萩野公介

20年東京五輪 男子200メートル個人メドレー決勝後、笑顔で瀬戸大也(右)と肩を組む萩野公介

決勝が、現役最後のレースとなった。平井コーチに「背泳ぎで勝負したい」と伝えた。10年近く歩んだ同コーチから最後の指示として「心も体も解放して、泳げ」と言われた。子どものころからの得意泳法に、万感の思いを乗せて、飛ばしに飛ばした。後半に失速して6位も「やりたい泳ぎができた」と完全燃焼した。

「前ばかりを見て、しんどいなと思って後ろを見ると応援してくれるたくさんの人がいて、それに気づけた。もう金メダルとか、メダルとか、これっぽっちのもののように感じた。水泳を続けてきてよかったなと思います」と声を震わせた。

ジュニア時代からトップを走り続け、気がつけば1人だった。ずっと孤独だと思っていた。現役の最後に勘違いだったと気づけた。それは競技力と引き換えだったかもしれないが、最後に何より自分自身を許すことができた。

「リオで金、銀、銅をとって、東京五輪で3つが金メダルならいいなと頑張ってきた。でもうまくいかなくて、心と体が一致しないこともあった。それも全部ひっくるめて自分だと認めてあげて、ここに立てた。支えてくれた人にも感謝だし、僕自身にも『ありがとう』という感謝の気持ちです」

それは事実上の引退宣言だった。