【世界フィギュア秘話】坂本花織その瞬間 「自分が1番か」より「3枠取れたか」に至った思考の源

初めて世界女王が決定する瞬間、坂本花織が発した言葉には素性がにじみました。4歳の頃から二人三脚で進んできた中野園子コーチとのスケート人生。フランス・モンペリエでの現地取材を経て、担当の松本航記者が描くスケーター物語です。

ストーリーズ

松本航

<22年フィギュアスケート世界選手権フランス大会>


フリーで演技する坂本(ロイター)

フリーで演技する坂本(ロイター)

中野園子コーチと二人三脚

右手で抱き寄せた教え子の頭は、日本フィギュアの行く末でいっぱいだった。

2022年3月25日。フランス・モンペリエで開催されたフィギュアスケートの世界選手権は、女子フリーのクライマックスを迎えていた。

69歳の中野園子コーチは、興奮気味にリンクを後にした21歳の坂本花織(シスメックス)に寄り添った。赤のソファに腰掛け、2人で得点の発表を待った。

フリーは自己ベストの155・77点。最終滑走の重圧に負けず、ショートプログラムとの合計でも自己最高の236・09点が目の前のモニターに表示された。

演技を終え歓喜する坂本(ロイター)

演技を終え歓喜する坂本(ロイター)

直後の出来事だった。

「3枠!? 3枠!?」

坂本は自らの初優勝の確認よりも、1年後の日本の出場枠を気にしていた。他の代表2選手が苦しみ、最大3枠を手にするには2位以内に入ることが求められていた。そんな教え子の姿を見られたことが、中野コーチは誇らしくもあった。

演技を終え、感極まる坂本(ロイター)

演技を終え、感極まる坂本(ロイター)

「あの時『自分が1番か』ということよりも『3枠を取れたのか』と一生懸命聞いていましたから。3枠を取って帰るのが使命。それは絶対に死守しないといけないというのが、本人にも、私にもありました。『良かったね』と声をかけて、2人でホッとしました」

2月の北京オリンピック(五輪)では団体、個人と銅メダル2つを手にした。

そこに「世界女王」の肩書が加わった瞬間だった。

北京五輪 女子シングルで銅メダルを獲得した坂本花織(左)と中野園子コーチ

北京五輪 女子シングルで銅メダルを獲得した坂本花織(左)と中野園子コーチ

世界を下見「いつか教え子が…」

今や日本のエースに上り詰めた坂本を、中野コーチは4歳から指導してきた。神戸を中心に兵庫県で活動する「神戸組」は、坂本の1歳上で4大陸選手権を2度制した三原舞依(シスメックス)ら有力選手を輩出している。

だが、数年前まで、五輪や世界選手権は近くて遠い舞台だった。

2人が日本を代表する選手になってからも中野コーチの自宅には、毎年決まって、カナダから便りが届いた。差出人の欄には現地のツアー会社名が記されていた。五輪や世界選手権に関するチケット案内だった。

「あまりにも下見に行っているので、どこに行って、どこに行けていないかを覚えていないぐらい。『この勉強はいつ役に立つんだ』と思いながら、だいぶ投資はしました。五輪や世界選手権に行くと、その年の傾向が分かる。いつもカナダの会社のツアーでした。カナダのツアーは力があって、良い席を取ってくれる。一番前の列で見られるんです。『いつか教え子が…』というのは(周囲に)冗談では言っていました。(自分の)教室では言えないので、友達とかにですよ」

初優勝した坂本(ロイター)

初優勝した坂本(ロイター)

「神戸組」のクラブ内において、実績は関係ない。

小学校入学前の教え子から、坂本や三原に至るまで、62歳のグレアム充子、26歳の川原星両コーチと協力し、1人1人に対して、真正面から向き合ってきた。4年前にはこう明かした。

「もしかしたら『みんなのために怒られているんだ』と坂本が思っているかもしれませんが、彼女に対して怒っている時は、本当に坂本を怒りたい時です」

坂本、三原とともに今季の全日本選手権に出場した21歳の籠谷歩未は以前、生徒の目線でこう明かした。

「中野先生がいるから神戸クラブは成り立っていると思います。1人1人に対して真剣。手を抜かずに全力でぶつかってきてくれるというのは、みんな感じています。小学生も、大学生も関係なく、みんなが仲間で、先生が平等に接してくれるのが神戸クラブです」

大切にするのは日々の練習だ。夏場は朝練習が午前5時45分に始まり、最初の1時間は全員でスケーティングを行う。「ラインジャンプ」と呼ばれる一斉に跳ぶジャンプをこなし、そこから曲をかけた通しに入っていく。個人競技でありながら、周囲への思いやりは、そうして培われていく。

世界選手権女子で初優勝した坂本(中央)(ロイター)

世界選手権女子で初優勝した坂本(中央)(ロイター)

五輪銅の反動修正「練習にしかない」

今回の世界選手権前も、坂本にとって苦しい時間が続いた。ピークを合わせた五輪で銅メダル2つを獲得。帰国後、その反動により心身にズレが生じていた。

それでも大舞台できっちりと完成度の高い演技を2つそろえた。中野コーチはその要因を「練習にしかないと思います」と言い切り、五輪から世界選手権にかけての時間を振り返った。

「どんな風に…いつも通り。やらなかったらガミガミと、最後の日まで戦いました。練習でミスをしたら、徹底的になくすまでやる。本人もそう思っていたけれど、なかなか体がついてこなくて、きつかったみたいです。『とにかくやり切れば、最後は笑えるから』ということで、最後の笑顔を目指してやらせました」

厳しさの中にある愛情を、坂本は受け止めている。

初優勝した坂本(ロイター)

初優勝した坂本(ロイター)

「自分自身、メンタルが強いかというとそうではない。別に強くも弱くもない『普通』だと思います。やっぱり今までの練習が力になって、練習通りの演技が、どの大会でもできるようになってきた。練習から『ノーミス』というのは目標にしているけれど、なかなかできない時に自分に甘くなる。そういう時は先生が活を入れてくれる。感謝しています。今後も『もっともっと活を入れまくってほしいな』と思っています」

初優勝を飾り感極まる坂本(ロイター)

初優勝を飾り感極まる坂本(ロイター)

何度もプライベートで訪れ、観客席で眺めた世界選手権に君が代が流れた。表彰台の中央で涙を流す坂本を見ても、中野コーチは世界一を実感できずにいた。

「まだ実感がありません。『いいんでしょうか』という感じです。毎年毎年見に来て、あそこ(世界選手権)にいつか行きたいと思っていた。でも、トップというのは想像していなかったので…すごいですよね」

孫ほど年齢が離れた教え子は、まだ21歳。まもなく古希を迎える中野コーチの情熱も衰えることはない。

初優勝し金メダルをかける坂本(左)(ロイター)

初優勝し金メダルをかける坂本(左)(ロイター)

最終日にはエキシビションが行われた。重圧から解き放たれた坂本を横目に、冷静に次の目標を掲げた。

「4回転も、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)も入れて、今度は今年出なかった国(ロシア)も交えて、トップを目指せるように頑張っていきたいと思います」

世界中から認められた「強さ」と、その陰に隠れている「弱さ」-。坂本のすぐ隣には、両方を知り尽くした師がいる。

<【世界フィギュア秘話】4月14日三浦璃来・木原龍一編、18日宇野昌磨編を予定しています。お楽しみに!>