【レジェンドのその後】冬季五輪日本人初メダリスト、猪谷千春「朝サラダ」が健康の秘訣

一線を退いてもまだまだ元気だ! 往年の名選手、指導者の気になる今を紹介する「レジェンドのその後」を蔵出しして毎週金曜日に配信します。今回は冬季五輪日本人初のメダリスト、猪谷千春さんです。(2018年2月6日紙面より)

レジェンドのその後

首藤正徳

<56年コルチナ・ダンペッツォ五輪:スキー回転銀メダル>

今回は冬季五輪日本人初のメダリスト、猪谷千春さん(91)が登場。1956年コルチナ・ダンペッツォ大会のアルペンスキー男子回転で銀メダルを獲得。戦後復興の途上にあった日本に大きな希望を与えた。引退後は実業家として成功する一方、長年にわたり国際オリンピック委員会(IOC)の要職で活躍している。五輪への思いから、元気の源まで話を聞いた。

国後島生まれの91歳

◆猪谷千春(いがや・ちはる)1931年(昭6)5月20日、北海道・国後島生まれ。3歳からスキーを始め、五輪は52年オスロ大会から3大会連続出場。56年コルチナ・ダンペッツォ大会の男子回転で銀メダル。58年世界選手権でも回転で銅メダルを獲得した。57年米ダートマス大卒。59年AIU保険入社。アメリカンホーム保険会社社長などを務める。82年にIOC委員となり、同理事を経て05年に同副会長。現在は名誉委員。日本オリンピアンズ協会副会長。日本障害者スキー連盟会長。

1948年3月14日、国体全日本スキーでの猪谷

1948年3月14日、国体全日本スキーでの猪谷

スキーは現役「ワイフの護衛も兼ねて」

IOC名誉委員、スター保険会社名誉会長、日本障害者スキー連盟会長……今の肩書は5指に収まらない。80代後半を迎えてなお、猪谷さんの人生に休息はない。予定が入力されたスマートフォンを自ら操りながら、「ヤボ用が忙しくてね。こき使われてますよ」。もっともその顔はどこかうれしげで、声も明るい。

多少、耳が遠くなったと言うが、いまだ『病』とは無縁の人生。「大病はしたことないし、風邪だってもう何年もひいていない。現役時代からスキーでひどい転び方をしたけど骨折したこともない。メダリストで骨折した経験がないのは僕くらいかも。医者が言うには『知能と性格以外は大丈夫』だって(笑い)」。

1951年12月、オスロ五輪前に最終調整する猪谷

1951年12月、オスロ五輪前に最終調整する猪谷

スキーは今も現役。「あまり得意ではないワイフの護衛も兼ねて滑っています」。その奥様がサラダボウルいっぱいに盛りつける13種類の野菜を毎朝たいらげる。「僕は馬が馬草を食べるのと同じだと言ってますが、あれが健康の秘訣(ひけつ)みたい。もう10年くらい続けています」。冗談めかした語りの中に、妻への愛情と感謝がにじむ。

1956年3月、3年ぶりに帰国し知人の田島氏宅で、塩せんべいに日本茶を飲みながら日刊スポーツ元日付1面切り抜きを指さす猪谷(中央)と父六合雄氏(右)、母サダさん(左)

1956年3月、3年ぶりに帰国し知人の田島氏宅で、塩せんべいに日本茶を飲みながら日刊スポーツ元日付1面切り抜きを指さす猪谷(中央)と父六合雄氏(右)、母サダさん(左)

腕立て伏せや空気イスでトレーニングしながら勉強

62年前、欧州勢が圧倒的に強いアルペンスキーで、銀メダリストになった。「運も良かったけど、僕には自分で編み出した技術があった。右に回る時に右足に体重を乗せて上体をひねっていた時代に、僕は反対の左足に体重を乗せて上体も左にのこして回っていた。そうするとスピードが落ちない。だから欧州の選手とも互角に戦えました」。

当時は留学していた米ダートマス大3年。試験で平均60点以上取れないと試合に出られなかった。「だから勉強しながらトレーニングできる方法を考えました。床に置いた本を読みながら腕立て伏せをしたり、イスに座った格好、今風に言えば空気イスの状態で30分も机の上の本を読んだり…くじけませんでしたよ」。座右の銘は『七転び八起き』。「昔から何度も転んだ。その度に立ち上がって滑ってきた。スキーも人生も。失敗や挫折をバネにできたから、いい方向に進めたのだと思います」。

1955年12月、スイス・サンモリッツでの猪谷

1955年12月、スイス・サンモリッツでの猪谷

平昌五輪では日本勢の活躍とともに期待していることがある。「北朝鮮が参加を表明しました。出場するだけではなく、五輪がスポーツを通じた平和運動であることを理解してほしい。それが東アジアに平和が戻るきっかけになれば……」。IOCで長年、平和運動を推進してきた猪谷さんは、特別な思いで今、平昌の地で開幕を待っている。

【「レジェンドのその後」は毎週金曜日に配信します。お楽しみに!】