清水宏保と母 金メダル表彰式から15分後のやりとりに涙腺崩壊

98年長野冬季五輪スピードスケート男子500メートルで金メダルを獲得した清水宏保。「父が亡くなって、1人で苦労していたから、かあちゃんを喜ばしたかった」。スタンドの母の元に駆けつけ、金メダルをそっと首にかけてあげた清水。母と息子を取材してきた記者はあふれるものを抑えられませんでした。(2020年5月24日紙面より。年齢、所属など当時)

スポーツ総合

田口潤

<復刻:マイメモリーズ>

98年2月、長野五輪で拍手を送りながら表彰式を見つめる清水宏保の母清水津江子さん

98年2月、長野五輪で拍手を送りながら表彰式を見つめる清水宏保の母清水津江子さん

美輪明宏が作詞・作曲した「ヨイトマケの唄」という曲がある。炭坑の工事現場で、男たちにまじり、泥にまみれながら働く友人の亡き母を描いた名曲。長野五輪の前年1997年秋、北海道帯広市にあるスピードスケートの清水宏保の実家で母津江子さんを取材したとき、思い浮かんだのが、この曲だった。

幼少期からスパルタで鍛えられた父均さんが91年2月死去。均さんの創業した「拓祥建設工業」は休業に追い込まれた。残された4人の子供。末っ子の清水はまだ高校2年生だった。家計を支えるため、津江子さんは、清水の学校のお弁当を作った後、ヘルメットをかぶり、自ら現場に出て、土ぼこりにまみれた。マンホールの中にも入った。

「宏保も歯を食いしばって練習している。くじけてはいけない」。土木作業員の生活は2年間続いた。その後は看護助手も経験。取材に行った当時も、週6日、午前9時から午後6時までミシンに向かう日々だった。そんな苦労をみじんもみせず、息子の生い立ちから、現在の苦境まで、2時間余りも取材に応じてくれた。金メダルを目指す息子への思いが伝わってきた。

一方で、清水本人は五輪本番が近づくほど、自らの殻に閉じこもっていく。取材に応えないだけでなく、メディアとはあいさつどころか、目も合わさなくなっていった。「人に気を使いたくないから徹底的に避けた」とのちに清水。自分のためはもちろん、苦労をかけた母には世界一で報いたい。当時は腹も立ったが、それだけ競技だけに専心していた。

長野五輪 男子スピードスケート500メートル2日目(2回目) 金メダルを獲得し日の丸を手にウイニングランを行う清水宏保

長野五輪 男子スピードスケート500メートル2日目(2回目) 金メダルを獲得し日の丸を手にウイニングランを行う清水宏保

1998年2月10日、長野五輪スピードスケート男子500メートル。観客席で見守る津江子さんのそばでレースを見守った。上司のデスクからレース後の母の反応を取るよう厳命されていた。左胸のポケットに夫均さんの遺影を入れた津江子さんはスタート前から「転ばないように、転ばないように」と涙を流して祈った。清水は、そんな母の期待に応えるように、1回目でトップに立つと、2回目は五輪新記録を塗り替えて、日本スケート界初の金メダルを獲得した。

表彰式から約15分後、興奮冷めやらぬスタンドの津江子さんのもとに、清水が駆け寄ってきた。自らの首から金メダルを取ると、そっと母にかける。「父が亡くなって、1人で苦労していたから、かあちゃんを喜ばしたかった」。津江子さんは、最高の孝行息子に「これは宏保のものだよ」と、息子に金メダルをかけ直した。

息子のため、丁寧に取材に応じた母、競技のために極限まで集中した息子。そんな親子を見てきただけに、あふれるものを抑えられなかった。今も自分にとっては国民が熱狂した金メダルレース以上に、あのスタンドでの親子の絆が、胸に刻まれている。