羽生結弦と言葉 : 日刊スポーツ

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羽生結弦言葉

- Yuzuru Hanyu said... -

Olympics

オリンピック

スケートを始めたとき、まさかオリンピック(五輪)に出場するとは思ってもいませんでした。4歳のときには五輪を知りませんでしたから。しかし、スケートを始めた後は五輪を見て、とても影響を受けるようになりました、いつの五輪かは、はっきり覚えてはいないのですが(02年)ソルトレークシティーでしょうか。それから僕は、絶対に五輪でメダルを取りたいと思うようになりました

2018年2月18日、平昌五輪で2連覇を達成して、一夜明け会見で

日本人として、この演技を誇らしげに思う

2014年2月13日、ソチ五輪SPでISU公認大会史上初の100点超えの快挙に

五輪で金メダルを取って言うのも何ですが、ちょっと悔しい

2014年2月14日、ソチ五輪のメダリスト会見で。アジア勢初の金メダル獲得も、フリーの4回転サルコー転倒などを謙虚に反省

僕は五輪を知っていますし、大きいことを言うなと言われるかもしれないですけど、元五輪チャンピオンなので。リベンジしたい…リベンジと言うのもおかしいんですけど(前回ソチ大会の)フリーのミスが、やはりここまで4年間、強くなれた1つの要因だと思っているので。また明日に向けてリベンジしたい

2018年2月16日、病み上がり、ぶっつけ本番の平昌五輪SP後、いい演技ができた理由とフリーへの抱負を求められて

こうやってスケートを滑れて本当に幸せです。五輪のマークがあって、こんなにたくさんの方々に応援してもらえて。ホントのホントの気持ちは『嫌われたくない』ってすごい思うし、いろんな方に見られれば見られるほど、いろんなことをしゃべればしゃべるほど嫌われるし、いろんなことを書かれるし。うそみたいな記事が、これからもっともっと出てくるんだろうなって思います。ただ、僕がしゃべったこと、僕がつくってきた歴史。それは何1つ変わらないし、自分の中で今回は誇りを持って、本当に誇りを持って五輪の金メダリストになれたと思っているので。これからの人生、五輪の金メダリストとしてしっかり全うしたい

2018年2月18日、平昌五輪で2連覇を達成した一夜明けで、負傷から五輪までのメンタル状態を質問されて

五輪こそが、競技者、フィギュアスケートのスポーツとしての1番の目指すべきゴールだと思っている。それを取ってこそ「チャンピオンだ」と言えるんじゃないかなと思っている。誰が北京五輪でチャンピオンになるのかを楽しみにしながら、これから過ごしていきたいです

2019年3月の世界選手権後

そのままやってたら出ます。ただ、負けるぐらいだったらやめろ、って思ってるんで自分は。本当にハッキリ言って。ぶざまな姿は絶対に見せたくないので。それまでやってるんだったら、たぶん4A(4回転半)を目指しながら。常に強い自分でありつつ、明言はできないですけど、その先にそれがあったら、みんなうれしいかなって…へたくそだな、コメント。何年、インタビュー受けてるんだ(笑い)。でも、自分の中では競技生活の延長線上にあるくらい。今のところ猛烈に出たいとか、猛烈にそこで勝ちたいという気持ちでいるわけじゃないです

2019年9月14日、カナダ・オークビルで行われたオータム・クラシック後に

ソチ五輪の時は前のシーズンの世界選手権で4位で、平昌五輪の時は世界選手権で優勝して行った。なので、今季の世界選手権で優勝した彼(ネーサン・チェン)に幸運があることをとてもとても祈っています。僕自身、五輪に関してはいろいろ考えることはありますけれども、いい思い出も悪い思い出も、良かったところも悪かったところもたくさんあります。でも、それがあったからこそ今、成長してきたとも思っていますし。また、これから経験があるか分からないですし、これからどういうふうに世界の情勢が変わっていくか分からないですけど、またベストを尽くして五輪が来ることを心待ちにしたいなと思います

2021年3月の世界選手権メダリスト会見で

平昌シーズンみたいに『絶対に金メダルを取りたい』という気持ちは特にありません。ただ、必ず今季は4回転半を決めるんだ、という強い意志はあります。しっかりと、その意志を、決意を持って挑みたいなと思っています。(以前、五輪は4回転半の成功の先にあるという発言もしていたが)道の中にあるのであれば、とは思います。ただ、やはり先ほども言ったように、平昌だったりソチだったり、その時みたいな熱量はないな、と自分の中では思っています

2021年7月9日、アイスショー「ドリーム・オン・アイス」で

僕にとって、平昌五輪までは完全に夢の舞台でした。ソチと平昌、どちらも金メダルを取って2連覇して。そこまでは小さいころから描いていた夢であり、具体的な目標でした。正直言って、3連覇というのは、あんまり考えずに過ごしてきました。ただ、3連覇の権利を有しているのは僕しかいない。夢に描いていたものではなかったかもしれないけど、夢の続きをしっかり描いて、あのころとはまた違った、前回、前々回とは違った強さで五輪に臨みたい

2021年12月26日、北京五輪代表内定会見で

2連覇というものを既に持っていて、それを失うことは確かに怖いんですよ。間違いなく平昌五輪の時より負ける確率の方が高いと思いますし、今のところは。ただ、このジャージーを着た時に「これは勝ちにいくんだな」「勝ちにいかなきゃいけないんだな」って、あらためて思わせていただきました

2021年12月27日、北京五輪代表内定の一夜明け対応で

オリンピックって、やっぱり発表会じゃないんですよ、やっぱ勝たなきゃいけない場所なんですよ、僕にとっては。やっぱり2連覇は絶対に失いたくないし、だからこそ、また強く決意を持って絶対に勝ちたいなって思いました

2021年12月27日、北京五輪代表内定の一夜明け対応で

Great East Japan
Earthquake

東日本大震災

生活で精いっぱいなのに、何でスケート…。やめようかな

アイスリンク仙台で練習中に被災し、スケート靴が脱げずリンクに膝をついて逃げた。4日間は家族4人が避難所暮らし。畳1畳に毛布1枚の生活も味わう

僕が、本当は支えられていたんだな

2012年3月、フランス・ニースで開催された世界選手権。気迫こもる演技で3位になる。震災後は全国を転々とし、60以上ものショー公演が練習代わりだった。その最中、500通のファンレターに返事を書いて

世界選手権という大きな日に(11日を)迎えられたのはすごくうれしい。少しでも震災について思い出すきっかけになってもらえれば

2013年3月、世界選手権のため滞在したカナダ・ロンドンで。日本時間に合わせた午前1時46分から、日本の方角を向いて黙とう

メダリストになれたからこそ、震災復興のためにできることを。ここからがスタート。演技で直接的ではなくても、間接的にでも思い出すきっかけになってくれれば。金メダルからスタートしなくては

発生から3年を迎える前月の2014年2月、ソチ五輪で金メダル。エキシビションでは東日本大震災からの復興を願ったプログラム「白鳥の湖」を披露

本当に、大変な日々でした。僕は内陸部の人間だったし、実際に地震の被害にしか遭っていない。それでも、ガスも電気も水もない生活は本当に大変で、それ以上に苦しんでいた方々がたくさんいることを、特に津波や原発で被災された地に足を運んで思いました

2015年6月、福島第1原発事故の現状を見るため、いわき市、広野町を訪れた。除染廃棄物を入れた黒いフレコンバッグが大量に置かれた現場、津波被災地域を回ったことを18年平昌五輪の直後にこう振り返った

少しでも東北のためになれることをうれしく思う。この地で一生懸命、頑張りたい

2016年1月、盛岡市内で「NHK杯スペシャルエキシビション」の会見に出席。3月で5年がたつ東日本大震災の復興を祈願する特別企画のショーに出演

このリンクを借りて、僕は何とかスケートを続けることができました。つらいこともたくさんあるけど、スケートをやっていれば楽しいこともある。皆さんが幸せになれるよう滑った

2017年8月、神奈川区制90周年イベントに参加。会場の横浜銀行アイスアリーナは震災後の練習拠点の1つで「花になれ」を舞った

ソチ五輪でも、こういう質問をされて。どう答えていいか分からなくなった自分がいて、その時の自分に何て言っていいか、まだ分からない。ただ、ひとつ言えることは、こうやって五輪という僕が一番大切にしている大会で、また金メダルを取れたこと。それは誇りに思う。何よりも自分が金メダルを持って被災地の方々にあいさつしに行った時にたくさんの笑顔が見られたので、今度はちょっとは自信を持って、皆さんにまた笑顔になってもらえたらいいなと思っています

2018年2月の平昌五輪で2連覇。演技直後、震災について質問された時は「少し考えさせてください」。その後のメダリスト会見で

震災発生から8年ですが、まだまだ復興途中の地域が多いです。私もお役に立ちたいと思い、今年も出品します

2019年3月11日、ヤフー主催の復興慈善オークションに4年連続で出品。愛用スケート靴が約712万円で落札された。全額寄付

真っ暗闇なトンネルの中で希望の光を見いだすことは難しいと思います。でも『3・11』の時の夜空のように、真っ暗だからこそ見える光があると信じています

2020年3月は新型コロナ禍で世界選手権が59年ぶりの中止に。4月に日本オリンピック委員会(JOC)公式ツイッターに登場し、翌5月には日本スケート連盟のツイッターで、震災後に滑ってきたプログラムの振り付けを計311秒かけて披露した

やっぱり言わせてください。僕は、この言葉に一番支えられてきた人間だと思うので、その言葉が持つ意味を、力を一番知っている人間だと思うので、言わせてください
「頑張ってください」
あの日から、皆さんからたくさんの『頑張れ』をいただきました。本当に、ありがとうございます。僕も、頑張ります

2021年3月、発生から10年。当時高校1年で、この間に冬季五輪2連覇を遂げた羽生が支えられた言葉を返した。被災地に届くと信じて1182字の感謝を

Injured

負傷

痛みよりも感覚を取りました

2013年3月、ロンドンでの世界選手権に左膝、右足首痛を抱えながら強行出場。SP9位から4位へと追い上げ、ソチ五輪の国別最大出場枠となる「3」を確保した。痛み止めの注射を打ち、薬も服用。指圧師が寝ずの治療をしてくれたものの回復具合は30~40%で、追い打ちをかけるように朝の練習で右足首も捻挫。痛み止めの量を抑え、激痛にむしばまれながら戦った

やり切った。体調が悪い中で、たくさんの方が体と心のケアをしてくれて、本当に感謝でいっぱいだな。終わって、へたり込んで、氷にもすごく感謝!

2013年3月、ロンドンでの世界選手権に左膝、右足首痛を抱えながら強行出場。SP9位から4位へと追い上げ、ソチ五輪の国別最大出場枠となる「3」を確保して

実際にスポーツは自分たちの限界に挑んでいるわけで、ある意味では死と隣り合わせ。この間の衝突した事故は、本当に1秒も満たない時間の差があったら、僕はいなくなっていたかもしれない

2014年11月8日の中国杯フリーの直前練習で他選手と衝突。帰国後に頭部挫創、左太もも挫傷など計5カ所のケガと診断された。それでも同月下旬のNHK杯に出場し、直前の公式会見では「滑ることに恐怖はないのか?」と聞かれても、迷うことなく「ないです」と言い切った

正しかった。結果がどうであれ、こうやって滑り切れた。決して後ろに下がってはいない

2014年11月29日、NHK杯フリーを滑りきって

(衝突事故の前には)戻れない中で、これだけ乗り越える壁を作ってもらった。こんなに楽しいことはない。その壁を打ち砕くのではなくて、しっかり乗り越えたい

まれな事件を体験できた。課題が浮かび上がったので本当に幸せ者。何て幸せなんだろう

2014年11月30日、GPファイナル進出を決めたNHK杯の一夜明けで

(14年ソチ五輪の後)一番最初の試合から、中国(杯での事故)があって。そして手術もあって、捻挫をし。本当にけがと病気と、そういったものにずっと苦しみながら過ごしたわけですけど。それは思い描いてなかったですね。はっきり言って思い描けなかったです(笑い)。でも、でもですけど正直に言えるのは、こうやって、もし何もなくて、この(2017年11月の)NHK杯でけがをするまで本当に順風満帆で何もなくて、うまくいっていたとしたら、たぶん五輪で金メダルは取れていないです。やっぱり、そういういろんな経験があったからこそ、いろんな勉強ができたし、いろんなことを学べたし。それを生かせたのが今回のけがからの復帰だと思っています

2018年2月18日、平昌五輪で2連覇を果たし、一夜明け取材で「ソチ大会後の4年間、思い通りにいったのか」と尋ねられて

スケートができない間だからこそ、机に向かって、パソコンに向かって、いろんなことを学ぶことができたと思っています。もちろん自分の足のけがが治りが遅くて、すごく焦ることもあったんですけれども、自ら、そのけがについていろいろ調べたり、また、痛みと向き合いながら、どのようにすればけがを早く治すことができるかを勉強してきました。勉強している間に、再びけがをしないためのトレーニング方法やピークの作り方、また試合に臨む時のメンタル、そういったものを勉強したと思います。実際、足は20%から30%ほどしか痛みは落ちていないんですけれども、最終的にこうやって痛み止めと一緒に、ではありましたけど金メダルを取ることができたので。やはり、その20%、30%まで痛みを落としてくださったサポートメンバーに感謝しながら、これからも滑らなければと思っています

2018年2月、平昌五輪で金メダルを獲得後、日本外国特派員協会での会見で右足首の状態について触れて

本当に申し訳ないんですけど、自分でも悔しいなってすごく思うのは、去年のNHK杯以降、弱かった右足首がさらに緩くなってしまっていること。ほんのちょっとの衝撃でもすぐ捻挫になってしまう、大きなけがになってしまう。本当に悔しいなって思いますし、自分としてはそれも羽生結弦だから、やっぱりそういうこけ方をするようじゃ、まだまだ技術不足だな、っていう悔しさがあります。そのもろさも含めて、また積み重ねて、強い演技をできるようにしなくちゃいけないなって思います

2018年11月16日、再び右足首などを痛めながら強行出場したロシア杯フリー後に

(NHK杯の前に損傷した右足関節靱帯について)フリーの通し練習かな。4回転のアクセルやって、そのまま次のサルコーにいった時、エッジが氷に絡まってしまって。ちょうど、エッジを研磨してもらったばかりだったんですよ。で、感覚違うなって思いながらやったらホントにエッジが氷にとられてしまって、本当だったら抜けるはずが抜けなくて、バキッっていきました。だから、直接的な(右足首負傷の)要因はサルコーなんですけど、単発のサルコーを跳ぶんだったら問題なくて。やっぱり4A(4回転半)をやった後っていうこともありました

2021年12月23日、全日本選手権の公式練習後、右足のけがについて触れて

右足の捻挫に関しては知り尽くしているので、どうやったら早く治せるかっていうことをひたすら考えつつ、加圧トレーニングで治療促進したり、超音波を使ったり。低周波を使ったり、いろいろやりながら。仙台でできることは限られてはいるので、そうやって治していきました

2021年12月23日、全日本選手権の公式練習後

All Japan Championship

全日本選手権

やはり、高橋先輩、小塚先輩、織田先輩がいたからこそ僕らはいる。まだまだ追いつけてない部分はたくさんある。先輩たちのように『強い日本』になっていきたい

2012年のSP首位発進後

初めて1位の台に乗ったので、興奮してジャンプしちゃいました

2012年大会で、5度目の出場で初めてとなる表彰台の真ん中に両足ジャンプで上がって

壁を乗り越えたら次の壁しかなかった。でも、人間はそういうふうに課題を克服したら次の課題にいくのかな。僕は人一倍、欲張りなんだろうな

2014年大会、中国杯での衝突による負傷から練習時間も十分に確保できない中で3連覇を達成

明らかに悪い演技でした。下手くそだと思いました。メラメラです。煮えたぎってます。課題がたくさん見つかって練習できるのは、うれしい

2015年大会、4連覇を成し遂げるもフリー後半の4回転トーループと3回転半で転倒し

追いかけて脅かしてやろうかな。こんなもんじゃねえぞ。(世界選手権では)ネーサン(・チェン)と当たるかもしれないし、いま負けた(宇野)昌磨という壁もある。圧倒的な武器が必要なので(4回転半を)試したい思いはあります

2019年大会、日本人相手に5年ぶりの敗戦となる2位に終わった後は自ら「弱い、弱っちい」「悪い点を話せば30分かかる」「グチャグチャ」と言うほど混乱したが、徐々に負けん気を取り戻して前向きに

戦えなくなっている。もう、やめようかな…。好きなスケートをすることにも罪悪感があって。自分のやっていることが無駄に思えて、1人だけ暗闇の底に落ちる感覚でした。10月まで3回転半も跳べなくなってしまって。戦うことに疲れた。でも暗い中から、自分自身がつかみ取りたい光に手を伸ばしました。やめることはいつでもできるし、望んでないし、応援してくださる方はいる。試合の中で得られる達成感、試合で乗り越えられる苦しみが好きなんだなと思った。天と地と羽生結弦。『天と地の間に、俺がいるぞ』と

2020年大会、新型コロナウイルス禍でGPシリーズを全休。シーズン初戦となった全日本選手権で優勝し、公の場に出てくるまでの300日超を振り返って

24、25歳ぐらいの時ですかね。すごく成長が止まったなって思った時期と、フリーが通せなくなったなって時期があったんですよ。でも僕たぶん、今、一番うまいです、間違いなく。それはトレーニング方法が自分で確立できるようになった。自分でプランニングできるようになった。羽生結弦にとってのフィギュアスケートのトレーニングがどういうものか確立されて、実行できるようになったことが一番大きいんじゃないかな

2021年12月27日、27歳にして2年連続6度目の優勝を飾った全日本選手権の一夜明け対応で

Quad-Axel

クワッドアクセル

たぶん(4回転)5種類までは何とかなるかな。初めてやるとか、そういう史上初とか大好きなんで。ループは片足でステップアウトまではいきましたし、ルッツは回りますし、アクセルもある程度は回って、技術的には回転不足でこけるくらい

2014年2月22日、欧米以外では初の金メダルに輝いたソチ五輪のエキシビションで。当時の4回転はトーループとサルコー。ループ、アクセルの成功者が世界でいない中で目標を口にした

アクセルはやりたいなと思っています。たぶん小さいころの自分だったら『前人未到だから』って言うと思います。でも今の僕の気持ちとしては、やっぱり最後の最後に自分を支えてくれたのはトリプルアクセルだったし、やっぱりアクセルジャンプというものに懸けてきた思い、時間、練習量はどのジャンプよりも多いし、何よりも僕の恩師である都築(章一郎)先生が『アクセルは王様のジャンプだ』の言葉を言っていたので。そのアクセルジャンプを自分は得意として、そして大好きでいられることに感謝しながら、クワッドアクセルを目指したいなと思っています

2018年2月18日、平昌五輪で2連覇を達成後の一夜明け会見で

後ろ向きで跳ぶジャンプというのは手を横に回しながらジャンプできるので、回転をすごくかけやすいんですね。アクセルジャンプというのは手を後ろに持っていって、そのまま前に出さなくてはいけない。遠心力をすごくかけづらいんです。その上で4回転『半』回らなければいけないので難しいんです。まだ誰も試合で成功させたことはないですし、実際に4回転半の練習をしている人も少ないと思います。その中で何とか、初めの人にはなれなくても、自分の夢である4回転半のアクセルを成功させたいなという気持ちでいます

2018年2月27日、日本外国特派員協会での会見で

5回転サルコーの練習をしていて、足が引っかかりました。クワッドアクセル(4回転半)を練習するために、もっと回転力を上げたいと思っていて。ハーネスでの4A(4回転半)はすごくキレイに降りています。キレイなの跳びますよ、僕。本当にキレイなの跳んでやるからな。見とけ、世界!

2019年11月、オータムクラシックの公式練習後に左足首捻挫の理由を聞かれて、いきなり告白。報道陣どよめく。4回転フリップも「練習では3回は降りている」と発言

4回転アクセルを試合で降りたい。自分の心にうそをつかないのであれば、このコロナ禍の中でスケートを頑張る理由は、この社会、世の中で、自我を押し通してまで練習させてもらう理由が、4回転アクセルの成功。手すりもないくらい壁は高い。でも幻想にしたくない。壁がない、壁の先を見たい。それだけが今、この世の中で自分がスケートをやっている理由

2020年12月の全日本選手権で優勝した後に「最終目標」を聞かれて

最終目標は五輪で金メダル、ではなく4回転半を成功させること。4回転半を跳べないと一生、満足できない

2021年3月、世界選手権を終えて

アハハ、ド直球に聞きますね。分かんないですね。どう決まったかによるんじゃないですか。自分の心、納得、満足できるのかが根本。もし満足したら考えるかもしれないし。ただ、確実にうまくなってるんで、羽生結弦

2021年3月、世界選手権後。「4回転半を降りたら、やめてしまう?」と質問されて

複数人で練習した場合、4回転半のコース上に人がいれば気が散ってしまうこともある。1人だと、それがない。あと8分の1回れば立てます。ただ、そこまでに酷使していて痛みやダメージが確実にたまっている。2月の終わりまでに降りられたら入れようと決めていたんですけど、降りられなくて。かなり死ぬ気でやりました。ほかのジャンプを跳ばずに2時間ぶっ続けで4回転半だけとか。平均して1日45分間は練習していると思います

2021年3月、世界選手権後。国内練習のメリットや練習状況などを聞かれて

(ジャンプが)高くなると、完全に体が拒絶反応を起こしたり。高さと回ることの両立がかなり難しい

2021年4月、世界国別対抗戦の公式練習で1年4カ月ぶりに4回転半の練習を“公開”。その難しさについて

僕だけのジャンプじゃないな、って。跳ぶのは僕なんですけど、言い出したのも僕なんですけど。でも皆さんが「僕にしかできない」って言ってくださるのであれば、それを全うすることが僕の使命なのかなって思いました

8カ月ぶり公の場となった2021年12月、全日本選手権の公式練習後に4回転半の成功を諦めない理由を説明

疲れました。ループとは比べものにならないくらい体力の消耗がありました。朝の練習で、あまりにも跳べなさすぎて、失望してて。本番いくまで、かなり精神がグジャグジャになってたんですけど、そこも含めて、やっぱり成功し切れていないジャンプを本番で使用するのは難しい

2021年12月26日、全日本選手権フリー。試合で初めて4回転半に挑んだ後の第一声

誰も跳んだことないんですよ。誰もできる気がしないと言っているんですよ。それができる過程って、ひたすら暗闇を歩いている感じ。頭打って脳振とうで死ぬんじゃないかって思いながら、練習していました

2021年12月26日、全日本選手権フリー後。4回転半の練習状況について問われ

Victory or defeat

勝負師

僕、ファイナル、ファイナルって言い続けてますね。いまはいま、ですよね。「ここはNHK杯なんだよ」って感じてきました。もっと集中しなきゃいけなかったんだ

2014年11月28日、NHK杯のSP後の取材時に、GPファイナルに向かう自分の気持ちを見つめ直して

正直なことを言うと、ショート(SP)が終わった後に絶望していて。ネーサン(・チェン)もフリーで4回転を5回、跳んでくるのは分かっていたので。でも、この絶望的な状況の中で「何かを残さないといけない」使命感がすごくあったフリーで、あの構成(4種類の4回転5本)で完璧なノーミスをすることは不可能に近かったと思います。それに懸けて勝てないんだったら「ここでやるべきことやろうよ」って。「ここでアクセルを完成させたい」って気持ちでした

2019年12月のGPファイナルを終えて。チェンに12・95点差をつけられたSP翌日の公式練習で突然、4回転半に挑戦した理由を明かす

しんどいですよね。でも、楽しい。次は、ひと皮と言わず、10も20も皮がむけた、こういう羽生結弦を待ってた、という演技ができるように練習したい

2016年10月、シーズン初戦のオータムクラシックで4回転4本を含む高難度のフリーを初めて試合で滑った後、失敗を糧に

勝ちたいな、とすごく純粋に思ってましたし、負けには負けの意味しかない。はっきり言って自分にとっては、負けは死も同然だと思っている。本当に、本当に勝ちたいです

2019年世界選手権。300点超の高得点も銀メダルの結果に

Off time

オフアイス

物事を考える新たな視点を身に付けられている。こういう風に計算して、どこがエラーが起きたのかと、考え方1つ1つが競技に生きている

2014年12月27日、全日本選手権で3連覇。13年春から通った早大人間科学部通信教育課程での通信教育で生態心理学などの身体関連以外に、コンピューターのプログラミングなども学んでいることについて

僕、将棋もやるんですけど、(駒が)裏になることを「成」と言いますよね。ここまで来るのに歩兵のように1歩1歩進んできたと思うので、やっとここまで来られたなという思いと、さらにここから動き始めるところなので、そういう意味でもさらに強くなっていかないといけないな

2015年12月13日、今年の一字を聞かれて「成」と答える

(羽生結弦にとって言葉の力とは)ここまで有言実行を絶対したいなって思ってきました。ある意味、自分の言葉が鎖だったり、プレッシャーだったりはする。諦めないでやれるのは、そういう言葉たちのおかげなのかなって思っています。僕の場合、勇気づけられるより、整理できる方が近い。自分の気持ちだったりとか、自分が考えているプランだったり、自分がどういう感覚でジャンプをしたのかだったり、声に出すことによって整理されて、いい結果が出ることが多いです

2021年12月27日、北京五輪代表内定の一夜明け対応で

(コロナ禍の中、故郷の仙台で調整し)やっぱ仙台の街並みって、自分の中に常に残っている街並みで。もちろん都市開発があったりとかして、どんどん変わっていくところもありますけど、そこに懐かしさがあるだけでも心がホッとするというか。すごく温かい気持ちになれています

2021年12月27日、北京五輪代表内定の一夜明け対応で

Program

プログラム

僕だからできる繊細さ、和の力強さを見せたい

2015年6月12日、迎える新シーズンのフリーを「SEIMEI」にすると発表

「SEIMEI」も「バラード第1番」も、本当は何かもう伝説として語り継がれるような記録を持ってしまっている子たちなので。できれば寝させてあげたかったんですけど。でも「メダリスト・オン・アイス」の時に力を借りた時、あの時の精神状態だったからこそかもしれないですけど、ものすごく自分でいられるなって思って。それで「もう少しだけ、この子たちの力を借りてもいいかな」って思いました

2020年2月、4大陸選手権の公式練習で平昌五輪プログラムに戻した理由を問われて

このプログラムは、もう本当に数え切れないぐらい滑ってきましたけど、ワインとかチーズみたいなもので、今までこんなフィギュアスケートの形ってなかったかもしれないけれど、滑れば滑るほど、時間をかければかけるほど熟成されて、いろんな深みが出るプログラム。それがとても自分らしい。心から曲に乗せて、ジャンプをしたり、ステップをしたりできる

2020年2月の4大陸選手権SP。平昌五輪以来721日ぶりに「バラード第1番」を演じ、111・82点の世界最高記録を更新した後に

「バラード第一番」だったり「SEIMEI」だったり、自分の代表作となるようなプログラムの価値以上に、まだ洗練はされていないかもしれないけど、具体的な物語が、曲に乗せる気持ちが、強くあるプログラム。暗闇から最初は何か思い出がちらついてきて、皆さんの記憶だったり、自分が歩んできた道のりみたいなものが、蛍の光のようにパッて広がってきて、最初のスピンが終わった後からは、そういうものを全部エネルギーにして、何かに向かってがむしゃらに突き進んで、最後は自分でもよく分からないんですけど、何か意識が飛んでいるような感覚の中で、何かをつかみ取るみたいな物語。エキシビ(ション)のように感情を込めて滑ることができました

2021年12月24日、全日本選手権のSPで新プログラム「序奏とロンド・カプリチオーソ」を舞って