不世出のマラソンランナーがいた。走ることに、日の丸を背負うことに命を懸け、27年の生涯を疾風のごとく駆け抜けた円谷幸吉。ちょうど50年前の64年10月21日、国立競技場で3位表彰台に立ち、神宮の秋風にたなびく日の丸を、誇らしげに翻らせた。陸上で戦後初のメダル獲得。その首にかけられた、わずか約70グラムの銅メダルがズシリとのしかかり、英雄の運命を分けた。歓喜と悲劇、自衛隊員としての誇りと責務-。関係者の証言を基に、検証してみる。(敬称略)

64年10月22日日刊スポーツ1面
64年10月22日日刊スポーツ1面

 レース後の舞台裏を、4年後のメキシコ五輪銀メダリストが振り返る。戦前は日本のメダル最有力候補とされながら8位。同学年の円谷を「盟友」と慕う。

 君原健二(73)の証言 ゴール後(控室の)簡易ベッドに横たわる円谷さんは悲しげな顔で、まさか途中棄権したのではと思うほどでした。それほど責任感が強かった。私はそれまで、1日の中で『気楽に楽しもう』『いや何として頑張るんだ』と五輪に対する心の動き、悩みが何度も頭を駆け回りました。期待や責任感を免れたい、といういくじのなさです。

 同じ代表で、世界最高記録も出したベテランは、心の強さを振り返る。

 寺沢徹(79)の証言 開会式の後、逗子(神奈川)の最終調整地に入ったんですが、私と君原君は競技が見たいと代々木の選手村に入り、円谷君だけは逗子に残った。レースは、最初の5キロはいつも16分前後なのに、周りにつられて15分36、37秒で入りリズムを崩してしまった。

 7人きょうだいの末っ子(六男)。厳格な性格は幼少期に養われた。父幸七は会津若松の元陸軍連隊員。早朝に子供らを庭に立たせ点呼も取る。いかなる時も礼節を持って骨身を惜しまず…。円谷4家訓「返事」「あいさつ」「整理整頓」「自分のことは自分で」を徹底してたたき込んだ。

 本格的に陸上を始めたのは須賀川高2年から。就職難から卒業後の進路は、電柱に張ってあった募集ポスターから陸上自衛隊に決めた。半年間の教育期間を終え配属は地元の陸上自衛隊郡山駐屯地。7歳年上の3等陸曹との、運命の出会いが待っていた。

 斉藤章司(81)の証言 10月でしたか。課業後の自由時間で円谷君が縄跳びをしている。「何の練習なんだ」と聞くと直立不動で「はいっ、マラソン練習です」と。「じゃあ一緒に走ってやろう」と言うと「はいっ、お願いします」と。以後は毎日、課業後に「班長、お願いします」と頼みに来たんです。

 通常6時起床を、5時に起きて朝練習。課業後は裏山を使った夜間の70分コースで鍛えた。東京五輪代表決定後、香川・金刀比羅宮の1368段の石段を数往復し、最後は倒れ込みながら歯を食いしばってはい上がった気力。「(寺沢と君原の)2人が100キロ走るなら130キロ、1000キロ走るなら自分は1300キロ走る」と話す負けじ魂は、郡山時代に培われた。

円谷幸吉のマラソン成績
円谷幸吉のマラソン成績

 配属から2年半後、新設された自衛隊体育学校(東京・練馬)に入校。絶大な師弟関係を築く畠野洋夫コーチ(故人)に導かれ、トラックの走りにも磨きをかけた。翌63年のニュージーランド遠征で2つの世界最高記録樹立。初マラソンは五輪イヤーの3月、実験的に出場した中日マラソンで5位。何と23日後、これも試験的に出場した代表最終選考会の毎日マラソンで2位に入り、織田の後押しもあり代表に決まった。

 恩人との出会い、肉親の支え。全てを背負ったレース後、円谷は「35キロで僚友が来ない。僕がやらねばと思った」「次のメキシコで敵を討ちます」と自分にむちを打つ。君原には「国民の面前で追い抜かれ申し訳なかった」と吐露した。

 銅メダル獲得から約1カ月後の11月22日。円谷は約5000人に出迎えられ、須賀川駅から実家までパレードで凱旋(がいせん)した。1人1人に律義にも頭を下げ、声援に応えた。それから3年2カ月。遺骨になって戻ってきた地元の英雄を、今度は涙で出迎えようなど、よもや誰にも想像できなかった。【渡辺佳彦】

(2014年7月30日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。