64年東京五輪のレジェンドが、50年分の思いをぶちまけた。同大会で金メダル第1号に輝いた重量挙げの三宅義信氏(74)とアニマルの異名通りに優勝したレスリングの渡辺長武(おさむ)氏(74)。五輪50周年企画第3弾は、金メダリスト対談をお届けする。64年元日の日刊スポーツ1面を新幹線とともに飾った2人は当時を振り返り、将来に向けて言いたい放題。20年東京五輪を目指す選手と日本のスポーツ界に、強烈なエールを送った。【聞き手・荻島弘一、田口潤】

 ─東京五輪から50年、日刊スポーツの正月紙面を飾った写真です

 渡辺 ああ、覚えていますよ。横浜の先に行って、新幹線と一緒に撮った。

 三宅 いや、小田原の方じゃないか(実際は平塚付近)。思い出したよ。

 渡辺 あの時、金メダル確実と言われたのは私と三宅さん、(体操の)遠藤(幸雄=故人)さん。いつも取材などで一緒でしたね。

 ─金メダル候補として重圧があったのでは

 渡辺 私はなかったですね。絶対(金メダルを)取れる自信はあった。それまで国際大会で負けたことがなかったし。試合というものは出場し、勝つものだと思っていましたから。

 三宅 長武は強かったからね。我々は格闘競技とは違って自分との闘い。自分の記録を出せば金メダルは確実だったけれど、失敗する不安はある。ただ、プレッシャーとは違う。自信があるから不安があった。

 ─おふたりは、圧倒的な優勝候補でしたから

 三宅 みんな口では金メダルを取りたいというけれど、俺たちの場合は違う。取るのは使命だった。

 ─だから、重量挙げを競技前半に持ってきたという話もありますね

 三宅 組織委員会が動いてね。俺かレスリングを最初に持っていくと聞いていた。まあ、早くやれるのはうれしかった。(60年)ローマ大会の時は最後だったから、調子が落ちた時に試合なんだから。

 渡辺 そう、三宅さんが最初の金、2日後に私たちレスリングでしたね。

 ─五輪本番までの強化は順調でしたか

 三宅 レスリングは八田(一朗)さんがいて、早くから力を発揮してきた。でも、ウエートはコーチがいなかった。みんな素人、海外に行ったこともない。誰にも聞けない。人を見て、自分でやるしかないの。

 渡辺 レスリングは石井庄八さん(52年大会金)笹原正三さん(56年大会金)たちがいたから、恵まれていた。ただ、厳しかった。八田さんには「負けたら絞首刑だ」と言われたし。

 ─八田イズムのトレーニングは有名でしたね

 渡辺 夜は電気をつけたまま寝る。ラジオも大音響で鳴らしたまま。深夜に突然起こされて「元気か」と聞かれる。「はい」と答えると「よし、寝ろ」と。

 三宅 精神修業だよ。俺もレスリングの合宿に行って、起こされたけど。いろいろな所で練習した。明大の練習場は剣道場と一緒でね。うるさいの何の。集中しないと、練習もできない。それに比べりゃ、カメラマンにバシャバシャ撮られるなんて屁(へ)のカッパ。

 渡辺 沖縄ではハブとマングースの闘いを見せられた。マングースのスピードを見て刺激を受けた。

 三宅 だって、マングースはハブを見てないんだもの。それで、パッとかみつく。この人(渡辺)なんかマングース。相手に後ろとられたの見たことないよ。

 渡辺 そりゃ負けてないんですから。ポイントも取られないから、後ろ取られることもないですよ。(2)に続く


 ◆渡辺長武(わたなべ・おさむ)1940年(昭15)10月21日、北海道和寒町生まれ。北海道・士別高でレスリングを始め、中大に進学。61年の欧州遠征以来国内外負けなしで、62、63年世界選手権も連覇。強さから「アニマル」、技の正確さから「スイス時計」の異名をとり、186連勝はギネス記録となった。引退後は電通勤務。退職後の87年には復帰してソウル五輪出場を目指し、その後もマスターズなどで活躍した。

 ◆三宅義信(みやけ・よしのぶ)1939年(昭14)11月24日、宮城県村田町生まれ。宮城・大河原商2年で重量挙げを始め、法大3年の60年ローマ五輪銀メダル。卒業後は自衛隊体育学校の1期生として入隊する。64年東京、68年メキシコと五輪連続金メダル、72年ミュンヘン五輪4位。引退後は自衛隊体育学校長などを歴任、現在は東京国際大監督を務める。メキシコ五輪銅の義行は実弟、ロンドン五輪銀の宏実はめい。

(2014年10月22日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。