2020年8月9日-。長崎に原爆が投下され75周年となる日、東京オリンピック(五輪)の閉会式が行われる。日程は偶然だが、その意義は大きい。開閉会式の五輪統括となった映画監督の山崎貴氏(54)も「せっかくのタイミングで(演出と)何か関連づけられたら良い」と述べた。明日9日、長崎原爆の日を迎えるのを前に「五輪=平和の祭典」との原点に焦点を当てる。長崎市の田上富久市長(61)や被爆者ら、長崎で平和に思いを寄せて行動する人たちに話を聞いた。【三須一紀】


1955年8月8日に建立された長崎市の平和祈念像。作者は彫刻家の故北村西望氏
1955年8月8日に建立された長崎市の平和祈念像。作者は彫刻家の故北村西望氏

■被爆者の願い(83歳 下平作江さん)

 1945年8月9日、朝から空襲警報が鳴った。10歳だった下平作江さんは1歳のおいを背負い、8歳の妹の手を引いて、防空壕(ごう)を目指した。母は地域の婦人会長で周囲に避難を呼びかけるなどしていた。

 空襲警報は解除になったが、次兄から「解除後もすぐには出るな」と助言を受けていたことを思いだし、壕から出るのを少し、我慢した。もういいかな。出ようとした瞬間、ピカッと光った。

 「しっかりしろ」。たたき起こされ、その男性を見上げると、目玉が飛び出していた。気絶した妹遼子さんを見つけ、吹き飛ばされて岩にぶら下がっていたおいを助け出した。

 外は地獄だった。爆心地から約800メートル。「真っ黒焦げの死体ばかりだった」。爆心から約300メートルにあった自宅に向かうと、黒こげの姉の遺体があった。22歳だった。母の遺体はしっかりとは見つけきれなかった。

 長崎医科大生(現長崎大医学部)だった次兄は目立ったやけどはなかったが、数日後に亡くなった。長兄は出征したまま帰って来なかった。仕事で諫早にいた父と3人は被爆直後、別々に暮らし、翌年春からバラックを建ててともに暮らした。


インタビューに応じる下平作江さん(撮影・三須一紀)
インタビューに応じる下平作江さん(撮影・三須一紀)

 「人間的な生活はなかった。ノビル、アカザ、ヨモギなどの草を取って食べていた。ゆでると真っ青なあくが出てね。それを川で洗って食べた」。被爆から10年後、妹が列車に飛び込み自殺した。「姉ちゃん、母ちゃんのところに行きたい」とよく言っていた。盲腸の手術をしたがその後、しっかりと病院へ行けず、傷口がふさがらなかった。そこがうみ、臭うことにも悩んでいた。

 あれから73年。下平さんは83歳になった。2年後、東京に2度目の五輪がやって来る。長崎の原爆を閉会式の演出に取り入れるべきか聞くと「ぜひ、やってほしい」と願い、平和の尊さについて語った。

 「原爆が忘れられようとしている。今は平和だからいいが、あれだけの苦しみを味わうことになるかもしれない。でも私たちの苦しみは、私たちだけで十分。人間らしく生きて、人間らしく死ぬことすらできなかった時代。草を食べて生きた時代。伝えていく使命があるから、生きていく」

 75年間、平和のリレーをつないだ末にやって来る、2020年8月9日。


■市長の思い(61歳 田上富久市長)

 長崎市の田上市長は、東京五輪の招致段階から8月9日が閉会式だと認識していた。75周年という点が非常に重要だと指摘する。

 「高齢化が進み、被爆者のいる時代が終わり、被爆者がいない時代が始まろうとしている」。被爆80周年を健康に迎えられる被爆者はどれだけいるのか。だからこそ節目として75周年に全力を注ぐ。

 ノーベル文学賞を受賞した同市出身のカズオ・イシグロ氏に名誉市民を授与するため、ロンドンを訪れた際「第2次世界大戦の経験をどう継承していくかを考えないといけない」と言われた。その言葉を重く受け止め「被爆者がいらっしゃる間にやるべきことをやらないと」と決意を示した。

 これまでは「政治的と捉えられることは我々の意に反する」と、五輪に積極的に関与することは控えてきた。ただ、唯一の被爆国であり、五輪期間中に広島の原爆の日(8月6日)も迎えることから広島市とも連携し、大会組織委員会に協力したい考えがある。


閉会式が8月9日であることを受け、熱い思いを語る長崎市の田上富久市長(撮影・三須一紀)
閉会式が8月9日であることを受け、熱い思いを語る長崎市の田上富久市長(撮影・三須一紀)

 広島市が会長都市を務め、世界163カ国・地域、7614都市、国内1728都市が加盟している「平和首長会議」の枠組みで、大会に協力する方策を検討中。同会議は03年に、20年までの核兵器廃絶を目指す行動指針「2020ビジョン」を策定した。「被爆者が生きている間に核がなくなる世界を実現したいという思いから75周年の20年が目標となった」。五輪・パラ、同会議にとっても20年は特別な年で「ぜひ協力、連携できたら」と話した。

 2つの原爆の日、15日の終戦記念日がある8月で「その季節にオリパラが行われるのにも意味がある」とも語った。

 開閉会式の演出チームが発表され、五輪統括の映画監督、山崎貴氏が会見で、8月9日が閉会式と重なっていることについて触れ、演出への関連づけに前向きな姿勢を示した。田上氏は「長崎を最後の被爆地にすることで、2度と誰も被爆を経験しないようメッセージを送ることが、長崎の原点。そのような演出をぜひ考えていただけたら」と、願いを込めた。


■10代の祈り(徳永雛子さん、山西咲和さん)

 今年10月に発表されるノーベル平和賞の候補となっている高校生平和大使は、インド・パキスタンでの核実験が行われた98年、長崎で生まれ地道に、核廃絶と平和を求める「高校生1万人署名」活動を続けてきた。街頭で集めた署名を国連に届け、昨年までの20年間で署名は約167万筆に上った。

 8月、スイス・ジュネーブで開かれる国連軍縮会議で署名を提出する徳永雛子さん(長崎西高2年)と山西咲和さん(諫早高2年)も、五輪閉会式へ大きな期待を寄せた。

 徳永さんが活動を始めたきっかけは16年、広島でのオバマ前米大統領との握手だった。「オバマさんが悪いわけではないけど『核兵器をなくそう』『ごめんなさい』というスピーチはなかった。この言葉を言うことがどれだけ難しいかを痛感した」と、そこから核兵器について勉強。「国同士、信用できないから核を持つ。でも手順を踏んでいつか核兵器がない世界がくると信じている」と語った。


平和祈念像の前で千羽鶴を持つ高校生平和大使の山西咲和さん(左)と徳永雛子さん(撮影・三須一紀)
平和祈念像の前で千羽鶴を持つ高校生平和大使の山西咲和さん(左)と徳永雛子さん(撮影・三須一紀)

 五輪について「スポーツは言葉の壁を越えてシンプルなルールの下、1つになれる。私も東京の大学に行って20年に何かできたら」と語った。長崎にいても平和学習を面倒と感じる友人も少なくないという。徳永さんも被爆4世だが「原爆がなかったことになりそう」と危機感を持つ。

 山西さんは20年に「東京の大学で、日本の首都で平和活動を広めたい」と語った。風化を防ぐため、訪日外国人にも訴えかけられるようなイベントを企画したいといい、大会組織委員会の参画プログラムにも応募したい意向を示した。

 高校生平和大使派遣委員会の責任者、平野伸人氏(71)は「五輪の初心に戻って、平和を意識するべきだと思う」と静かに話した。16年リオ五輪の開会式は日本時間8月6日だったこともあり、長崎市平和公園内にあるブラジルの石碑の前で、当時の高校生平和大使らが黙とうした。「ノーベル平和賞もそうだけど五輪も平和を訴える重要なきっかけになれば。特に若い人はスポーツへの興味が深いので、若い世代へ伝わりやすいのでは」と期待した。


投下時刻を指す時計が展示されている長崎原爆資料館の入り口で説明をする長崎市平和推進課の大久保課長
投下時刻を指す時計が展示されている長崎原爆資料館の入り口で説明をする長崎市平和推進課の大久保課長

<証言者の育成>

 長崎市は年がたつにつれ被爆者が減る中、後世に被爆体験を語り継ぐためのさまざまな施策を講じている。その1つが「家族・交流証言者」の育成事業。被爆体験を託したい側と、受け継ぎたい側をマッチングするため、市が交流会などを開催する(今年は9月15、16日)。現在、講話などの活動ができる被爆者は40人ほどだが、それに加え、同事業により講話可能な人材が21人誕生し、全国や世界に発信する活動を担っている。

 また、田上市長は今年5月、ローマ法王と面会し、被爆地訪問を要請した。きっかけはローマ法王が昨年末、原爆投下後の長崎で撮影されたとされる「焼き場に立つ少年」の写真に「戦争が生み出したもの」とのメッセージを添えて、関係者に配布したことだった。

 今年の平和祈念式典には国連事務総長が初めて出席することも決まった。これらの平和活動について市平和推進課の大久保一哉課長(57)は「長崎を最後の被爆地にしたい。『私たちは関係ない』と思ってしまうことが一番怖い。続けないと核兵器がなくなるものも、なくならない」と静かに語った。


<45・8・6 広島生まれの坂井氏が聖火点火>

 ◆平和と64年東京五輪開会式 広島に原爆投下された1945年(昭20)8月6日に広島県で生まれた坂井義則氏(当時、早大競走部)が最終聖火ランナーを務め(写真)、国立競技場の聖火台に点火した。米国統治下にあった沖縄も聖火リレーが駆けめぐった。祝日以外は禁じられていた日の丸掲揚だが、リレーが始まると沿道に日の丸の小旗がたなびいた。


長崎市平和公園にある石碑
長崎市平和公園にある石碑
長崎市平和公園内にあるブラジルからの平和祈念碑
長崎市平和公園内にあるブラジルからの平和祈念碑
爆心地から約800メートルに位置する山王神社の爆風で破壊された鳥居
爆心地から約800メートルに位置する山王神社の爆風で破壊された鳥居
山王神社の一本柱鳥居。半分は爆風で破壊されたが、現在もこの片方が立っている
山王神社の一本柱鳥居。半分は爆風で破壊されたが、現在もこの片方が立っている
山王神社の被爆クスノキ。長崎市出身の歌手福山雅治もこの木を題材に「クスノキ」という楽曲を発表している
山王神社の被爆クスノキ。長崎市出身の歌手福山雅治もこの木を題材に「クスノキ」という楽曲を発表している
爆心地から約500メートルに位置する浦上天主堂。下に見える構造物はかつて天主堂にあった鐘楼で原爆によって破壊された遺構となっている
爆心地から約500メートルに位置する浦上天主堂。下に見える構造物はかつて天主堂にあった鐘楼で原爆によって破壊された遺構となっている
長崎に投下された原爆の爆心地には黒い石碑が建っている
長崎に投下された原爆の爆心地には黒い石碑が建っている