前回の東京オリンピック(五輪)の時、私は8歳でした。ちょうど64年に実家の書店が都電荒川線の梶原駅前に移転する直前のことでね。高い建物がなくて、どこにいても東京タワーが確認できる時代です。64年10月10日。懐かしいな。F86セイバーが空中にスモークで五輪マークを描いたのを北区にあった自宅の2階から眺めていました。今と違って、あの頃は空が広かったんですよ。

建物も、人の気持ちも「上へ、上へ」と向かっているような。そんな高揚感がありましたね。大人たちにとっては戦後復興の証しでしたから。五輪のために白黒テレビを買った家庭も多かったんじゃないかな。

一番記憶に残っているのは下敷きです。短距離走のスタートの瞬間の写真が使われた1枚は大会のポスターでもありました。父の仕事関係の方か、誰にもらったかまでは覚えていませんが、とにかく大事にしていましたね。開幕前は子どもながらに街並みの変化にわくわくしていました。

ただ、今になって日本橋が高速道路の下にあるのは残念だな、と思います。高度経済成長の下支えになったとはいえ、日本の道路の起点となる場所。歌川広重の浮世絵にある、富士山が遠くに望めるような景観は残すべきでした。

私も騎手時代は世界を相手にしました。85年の天皇賞・秋で“皇帝”シンボリルドルフを破ったギャロップダイナと臨んだ同年のジャパンCです。昔の騎手はどちらかというと職人気質で、勝ち負けよりも騎乗の中身を認められたいという部分がありました。欧州の陣営とは、決定的にそこが違いましたね。

レセプションパーティーでも、海外陣営は「日本のファンに素晴らしいパフォーマンスを見せにきた」とはっきり言います。リップサービスではありません。馬を相棒と捉えて結果も求める、誇りに近いものを持っている。今では海外に打って出る人馬も多いですが、我々の世代の日本人とは違う感性だと感じたことを覚えています。五輪は多彩な文化圏の人たちがメダルを求めて競います。日の丸を背負う選手の方々には、競技を通じて「世界」の価値観を感じ取ってほしいですね。

実家の書店は今年8月限りで店を閉める予定です。五輪から五輪へ、激動の時代を見届けてくれましたし、私も生きている間に東京五輪を2度見られるとは思っていませんでした。まさか自分の弟子の(藤田)菜七子が聖火ランナーになるともね。大変な状況が続きますが、開催がかなえば全ての選手を応援したいと思います。(349人目)