社会人3年目だった25歳の時に野球日本代表としてシドニーオリンピック(五輪)に出場しました。プロとアマが初めて代表チームを組んだ大会でした。最初は正直、代表入りは狭き門になるという思いと、五輪はアマチュアの祭典じゃないのかなと思うところもありました。ただ、前年に行われたアジア予選のメンバーに選ばれて出場すると、韓国や台湾もすごい選手が多くいました。やはり勝つためにはプロが参加するのも必要なことじゃないのかなと思う一方で、プロが来ちゃったら選ばれないだろうと内心は思っていました。

五輪出場は個人的な目標でもありました。僕が法大3年の時に開催された96年アトランタ五輪では日本代表に同じ内野手で1学年上となる青学大の井口さん(現ロッテ監督)、東洋大の今岡さん(現ロッテヘッドコーチ)らが出場していて見ていましたし、憧れていました。そんな僕が五輪代表入りを知ったのは、テレビのニュースでした。当時、日石三菱(現ENEOS)の補強選手として都市対抗野球に出場中で、夜にテレビで代表メンバー発表のニュースがやっていて「あ、選ばれた」という感覚でした。

アジア予選では代打という役割でしたが、五輪では二塁手を任されました。遊撃手専門だったので、後にも先にも二塁手として試合に出たのは五輪だけ。守ったことがなかったので、とても難しかったです。五輪では全試合(9試合)に出場しましたが、振り返れば本当に緊張していました。アジア予選も五輪も横浜高の後輩の松坂がチームメートでしたが、アジア予選の時は「おい松坂、ここ(横)に座れ。テレビに映るから」って言ったりしていましたけど、五輪はそんな余裕がなかったですね。

最終的に初めてメダルを逃し、ちょっと燃え尽きたものもありながら帰国しました。でも、あのプレッシャーを経験したら怖いものはなくなります。東京五輪で指揮を執る稲葉監督は法大の3学年先輩です。きっとプレッシャーも想像できないくらい大きいと思います。頑張ってほしいですし、代表になった選手は目いっぱい、楽しんでプレーしてもらいたいです。それを子どもたちが見てワーッと盛り上がってほしいですね。(353人目)