東京パラリンピック開幕(8月24日開会式、東京・国立競技場)まで16日で、あと100日と迫った。

新型コロナウイルスの猛威は収まらず、世論では開催への疑義が強まっている。そんな中、パラ陸上界の第一人者で男子走り幅跳び(義足T63クラス=片大腿切断)の山本篤(39=新日本住設)がインタビューに応じ、厳しい社会情勢下での現状や、スポーツを通じた今後の活動について語った。

■なくなったら切り替え

東京五輪・パラリンピック開催へ強い逆風が吹いている。大会中止への世論が日増しに高まる中、不安はないのか? 山本は穏やかな表情で「ないです。そんなに集中できないようなことはない。(緊急事態宣言で)練習場所の確保だけです。考えなくて良かったのが、考えなくてはいけなくなったひと手間はあります。でも、まったく練習できないわけではないので、探してできるところでできる練習をやっています」。

SNSで競泳の池江璃花子に参加辞退を求めるメッセージが届いたように、その矛先は、とがめられるはずのないアスリートにまで及んだ。出口の見えない閉塞(へいそく)感がウイルス同様、日本社会にまん延している。そんな状況に山本もまた心を痛める。

「アスリートは(大会が)ある前提で練習はしていますが、もしなくなったら、次の大会へ気持ちを切り替えるだけです。それしかありません」

スポーツには力がある。自らの存在意義をそこに見いだしている。高校時代に交通事故で左足を失った。絶望感から立ち上がり、走る喜びを知り、人生が大きく変わった。17年にはプロに転身し、社会活動への思いはより強くなった。ランニング教室を通じ、障がいを持つ子どもたちを支援する活動を続けている。

「走れなかった人たちが走れるというふうに変わって、すごく充実した姿を見た。義足の人が走るってことは、すごく気持ちの変化が出るものだと感じた。僕も義足で走ることをチャレンジさせてくれた義肢装具師の方がいて、今がある。走ったことで人生が変わった。それを多くの人に共有してもらいたい」

■無償でユニに団体名を

山本のユニホームの胸には、所属する「新日本住設」の文字ととともに、手足に障がいのある子どもたちの支援事業を行う団体「ハビリスジャパン」のロゴが入る。通常はスポンサー企業の名前を入れるところに、自ら申し出て無償で入れさせてもらったという。

「さまざまな活動を通して、障がいがある子たちもしっかり体力を伸ばすために運動することが必要だと知った。今までは観客から応援してもらう立場だけだったのが、自分がむしろ競技をすることで応援できる形があると感じた。それをこちら側から提案したところ快く受けてくれました。違う形で僕が応援できる形をつくることによって、自分のモチベーションにもなるかなと思っています」

■レガシーとしての活動

パラ陸上の第一人者としての自負がある。東京パラリンピックを通じて「レガシー」として、新たな取り組みを思い描いている。

「小学校に体育の授業がある中で(健常者と障がい者が)どう一緒にできるようにするか。その部分を構築できたら。どうしてもイベントだと1回で終わりです。その時来た人たちはハッピーかもしれないけど、次走りたいとなった時に何もない。だったら1回限りでなく、自治体などで何かしらの制度ができれば。その制度にのっとって義足の貸し出しができたり、アスリートの派遣事業ができたり。そういう1つの形が県とか市とか、スモールな単位から1個できれば、そこから全国に普及していったらいいなと思います」

障がい者スポーツ協会とは協議をしているが、まだ構想段階にすぎない。自らの競技活動を通じ、継続して訴えていく。それと同時に、子どもから大人まで、健常者と障がい者が一緒にトレーニングする陸上クラブの創設も準備している。やるべきことは尽きない。

「もうある程度、パラリンピックということをここまで知ってもらったので、いろんな意味で日本は大きく変わったなと思います。でも、さらにもう1歩進んでいくために、東京パラや、来年に神戸で行われる世界選手権を成功させたい」

山本は決して下を向かない。開かれた共生社会へ自らの役目があると信じ、その先へとより高く、跳躍していく。【佐藤隆志】

 

 39歳になる山本だが、7メートルの大台への意欲は高い。元世界記録保持者で、自己ベストは6メートル70。東京パラに向けて記録を伸ばすため、100メートルを12秒台で走れるスピードの強化に取り組んでいる。現在の世界記録は7メートル24で、東京パラで表彰台に登るには7メートルが目安となる。「ここ数年は12秒台で走れていないが、そこを改善できれば(7メートルは)いけるんじゃないかと思っています。試合に出ながら、動きの1つ1つがある程度できている」と手応えを口にした。

 

◆山本篤(やまもと・あつし)1982年(昭57)4月19日生まれ。静岡県出身。掛川西高-大体大。スズキを経て17年にプロ転身し、新日本住設と所属契約。大体大客員准教授も務める。パラリンピックにおいて08年北京大会の走り幅跳びで日本人の義足陸上選手として初のメダル獲得(銀)。12年ロンドン大会5位、16年リオ大会で再び銀。スノーボードで18年平昌冬季パラにも出場した。走り幅跳びの6メートル70、100メートルの12秒61ともにアジア記録。身長167センチ。