あれから1973日がたった。関学大時代、学生新聞を作る「関学スポーツ」で3年間取材させてもらった記者が記憶する限り、多田の口から最初に「東京五輪」の4文字を聞いたのは、1年時の16年1月30日。後期試験が終わったタイミングで開催される「フレッシュマンズ・キャンプ」でのこと。体育会の1年生が、1泊2日で大学1年目の競技生活を振り返り、今後の目標を語り合う。1班10人程度で、1人ずつ決意表明する時間で、多田は言った。

「僕の目標は東京五輪に出場することです」

拍手は起きたが、周囲の学生はきょとんとしていた。前年の15年は1年生で関西学生選手権を制覇。同8月の近畿選手権で自己ベストの10秒27をマークしたが、あの時点、あの空間では「東京五輪」を信じる者はいなかった。

あれから1973日がたち、変わったことが多くある。男子100メートルの日本記録は3度塗り替えられ、そのうち2度、同じレースを走って2位。19年に関学大を卒業後は住友電工に入社し、活動拠点を関東に移した。20年4月には個人でYouTubeチャンネルを開設。そして、新型コロナウイルスで東京五輪は1年延期…。酸いも甘いも肥やしにしてきた。

あれから1973日がたっても、変わらなかったことがある。笑顔が似合う、根っからの愛されキャラ。関学大のチームメートからは「タディ」の愛称で呼ばれ、先輩後輩関係なく輪の中心にいた。今の爽やかな髪形からは想像できないが、大阪桐蔭時代の丸刈りの写真を使って、よくいじられた。

追い風参考記録ながら、学生個人選手権で9秒94を出した17年。9月の全日本学生選手権は“プチフィーバー”が起こっていた。会場のどこを歩いても「写真撮ってください」とお願いされる。ついにはレース直前、アップのためサブグラウンドに向かう時にも人だかりができた。大一番の前にも、それに応えようとするから「護衛係」がついたほど。誰にでも優しく、平等に接することができる。

あれから1973日がたって、変えたことがある。「東京五輪に出場する」という目標をいつしか、「東京五輪で表彰台に上がる」と上方修正した。周囲のスプリンターが関東の大学に進学する中、「関西で強くなること」を選んだ男はどんな環境でも前向きに、自分はできると信じた。

試合後に報道されるインタビューを見てきたが、アスリート多田修平の記録は加速しても、人間多田修平の芯の部分は、変わっていないよう見えた。明るく、朗らか。それでも勝負事となれば、ぶれない信念を持ち“あの日”の言葉を有言実行させた。

あれから1973日。この日変わったのは、これまで笑顔で勝利を味わってきた多田が、涙したこと。地元大阪・長居競技場で流した涙は尊く、美しかった。【阪神担当=中野椋】