新型コロナウイルスの感染拡大で史上初の1年延期となった東京五輪が21日、「上野の1球」で始まった。全競技を通じた“開幕戦”の舞台に、3大会ぶりに実施競技となったソフトボールの上野由岐子投手(38=ビックカメラ高崎)が先発マウンドに立ち、勝利投手となった。08年北京五輪では伝説となった「上野の413球」で金メダルを獲得。22日で39歳となるレジェンドが、無観客開催となった逆風の祭典で13年ぶりの頂点を目指す。

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空白の13年。募り募った思いが凝縮された85球だった。2日間を1人で投げ抜き、伝説となった北京五輪の決勝から4717日。また上野は五輪の舞台に立っていた。「このマウンドに立つために取り組んできた。試合前はワクワク感しかなかった」。東京五輪開幕を告げる1次リーグ初戦の対オーストラリア。その1球目は外角に外れた。

初回はコースを狙いすぎ、1死一、二塁から連続死球で1点を失った。「もっと大胆に」と開き直ってからは本来の姿を取り戻した。4回3分の1を投げ、2安打1失点で7三振を奪った。8-1で5回コールド勝ち。勢いを生む開幕戦の白星を呼び込んだ。

「いろいろな思いがあった。背負っているものをすべて受け止めることができ、逆にすごく楽しめている。やっとこの舞台に戻って来られたとの思いが強い」

あの北京の後。次の五輪からソフトボールは消え、次の目標を失った。燃え尽き症候群。何げない時にも選手としての限界を思った。ふと漏らした事がある。

「ソフトボーラーとして完結しているなと思う時がある。北京で泣いて以来、涙もろくなった。前はドラマとか見ても泣けなかったが、最近は高校野球とか見ても頑張っている感を感じて泣けてくる。昔は泣くことがタブーというか、弱さを見せたくなかったが、人の話で感動することが多くなった」

涙は柄じゃない。北京の前は、ほとんど湧くことのない感情だった。だからこそ「もう自分は追っているもの、高めていけるものがないのか」とも思った。

やる意味を模索し、去就に悩んだ。そんな時、宇津木麗華監督から「続けることに意味がある」との言葉をかけられた。もはや上野は唯一無二の存在。投げているだけで、現役でいるだけで、大きな意味がある。「選手としてはこれ以上はない」と思っても、全てを背負い、受け入れると決めた。苦手だった後輩指導も積極的に担うようになった。14年春には左膝を痛めて引退も覚悟した。それでもソフトボールのため、五輪復活のためにと前を向き、ここまで突き進んできた。

宇津木監督からは「上野がいて、初めて優勝という夢がかなう」と託された。期待される金メダルは「使命」。24年パリ五輪では再びソフトボールは実施競技ではなくなるだけに、今回にかける思いは強い。「悔いのないように。ここまで積み重ねてきたソフトボール人生をぶつけて戦っていきたい」。伝説の第2章が始まった。【上田悠太】

◆上野由岐子(うえの・ゆきこ) 1982年(昭57)7月22日、福岡市生まれ。九州女高(現福岡大若葉高)を経て01年にルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)に入社。世界選手権は12、14年に金メダル、06、10、16、18年は銀メダル。174センチ、72キロ。

北京五輪からの歩み

◆08年8月 北京五輪の準決勝の米国戦を延長9回、続く決勝進出決定戦のオーストラリア戦を延長12回完投。米国との再戦となった翌日の決勝でも7回を投げ抜き、計413球の熱投で金メダルに輝く。

◆09年8月 16年リオデジャネイロ五輪でのソフトボール復活を目指すも、IOC理事会で採用競技から漏れる。

◆11年3月 自宅のある群馬・高崎で、東日本大震災を経験。

◆13年9月 東京五輪招致決定。野球・ソフトボールの追加実施に向けて、招致活動を行う。

◆14年春 日本代表合宿で左膝を痛めて離脱。

◆16年5月 肉離れで戦線離脱し、その後の世界選手権欠場。

◆16年9月 日本リーグ通算200勝を達成。

◆18年8月 千葉で行われた世界選手権決勝で、米国相手に延長10回完投も、サヨナラ負けで銀メダル。

◆19年4月 リーグ戦で打球を顎に受けて骨折し、手術。

◆20年3月 東京五輪1年延期が決定。

◆20年12月 パリ五輪から野球・ソフトボール競技除外が正式決定。

◆21年4月 リーグ戦で右脇腹を痛める。

◆21年7月 東京五輪初戦でオーストラリア相手に5回途中1失点で、日本に勝利をもたらす。

 

◆五輪のソフトボール 女子のみが96年アトランタ大会から正式種目として採用され、08年北京大会まで実施された。ただ米国や日本など一部の国を除き世界的な普及度が高くないなどの理由により、12年ロンドン、16年リオデジャネイロ大会で正式種目から除外。東京大会では女子のソフトボールが男子の野球とともに「追加種目」として実施されるが、再び24年パリ大会以降は除外されている。