実績か、旬か-。その、どちらを重視するかの判断は極めて難しいが、16年末に再就任した宇津木麗華監督(58)は国際舞台での実績と経験を大切にした。最終回、上野を再びマウンドに送った。「もう本当に上野しかできないことですから。本当に感謝。神様です」。そこに信念があった。

「海外と日本。投手は違う。国際ゲームの中で能力を出せるか」

15人の代表は早くから絞り込みが始まった。強化指定選手は19年前期には30人、同年後期には20人に。所属先ではアボットとバッテリーを組み経験豊富な峰は例外的に追加で入ったが、代表活動は、その選手たちに限られた。少し強引に言えば、リーグの成績は“度外視”。リーグ戦だけ見れば、代表よりも好成績だった選手も多く、代表野手12人の中には、過去2シーズンは不調に陥った人もいた。その過程は不満も生んだが、貫いた選考方法が正しかったと金メダルで証明した。選手の手で3度宙に舞い、喜びに浸って言った。

「正直に言うと、この1週間怖かったし、このご時世の中で五輪が開催されるのに迷いもありました。国民の皆さんが力になった。監督は何もできないので、感謝の気持ちで一杯です」

北京生まれ。もともとの名前は「任彦麗」。25歳の時に来日し、軍人だった父の反対を説得し、32歳の95年に日本の国籍を取得した。中国代表時代から憧れる恩師である元日本代表監督の宇津木妙子氏から「宇津木」の名前をもらい、「麗華」は両親から授かった「彦麗」と生まれた地の「中華」からだ。日本人となったが、2つの国の思いを背負ってきた。今も選手や関係者からは「任さん」と親しまれる。

日本代表として04年アテネ五輪で2大会連続メダルを獲得し、現役を引退。指導者となって、すぐ当時22歳の上野を1人だけ米国に連れて行った。直球ばかりで海外でなかなか通用しなかった上野に、変化球など幅広い投球術を学ばせ、息の長い投手となる糧を作った。その上野を中心に最後までチームを作りあげた。

自らのチーム作りは合っていたのか-。その葛藤を持ち続け、五輪を迎えた。 「本当にわがままにやらせてもらった。自分の戦略のために、ソフトボール界に迷惑をかけた。ソフトボール界(の協力)がなければ、私もここまでやれない。とにかく皆さんに、感謝しかないです」

金メダルを獲得しても頭を下げ、感謝した。「人生を懸けた自分自身のソフトボールを見せる」。その思いは実った。【上田悠太】