日本に体操個人総合の金メダル候補が誕生した。東京オリンピック(五輪)代表選考会を兼ねた大会で、19歳の橋本大輝(順大)が合計173・365点を出し、大逆転で初優勝した。予選7位から、決勝は計6種目で88・532点。19年世界選手権優勝者に僅差で、今夏の東京で頂点も見える進化を示した。五輪2連覇した内村航平(32)が鉄棒に専念する中、後継者になる。今大会の得点を持ち点として争う5月のNHK杯(長野)で、上位2人に入れば、五輪出場が決まる。

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橋本は両手を下から上へと勢いよく振り上げた。最終種目の床運動を終え、コロナ禍で入場制限された観客をあおる。優勝を確信したのか。意図は違った。

「まったく優勝だと思ってなかった。その後に北園選手の鉄棒があったので、盛り上げて良い演技をさせてあげたいと思って」

1歳下の北園が鉄棒に臨もうとしていた。仲間思いで、盛り上げ役。千葉・市船橋高3年で出場した19年世界選手権でも、あおっていた。それから1年半。順大の原田監督は「彼は起爆剤」と評す。周りを巻き込み、日本代表の力を引き上げる。19歳はこの日、その演技で爆発した。

決勝、1種目目が鬼門のあん馬だった。予選では2度の落下。倒立で着手が乱れたが、「応援が聞こえて頑張らないと」と踏ん張り、逆襲へ。跳馬での最高難度「ヨネクラ」など、長い手足で超高難度の技を演じ抜いた。逆転で首位に立った床運動を含め、15点超えが4種目。「武器が増えた」と笑みがはじけた。

2日前は泣き崩れていた。予選7位。サブ会場で内村に「決勝切り替えれば大丈夫だから」と励まされたが、1時間以上うずくまった。「エースとなって自分が戦います」と強気に宣言した舞台での失墜だった。ただ、04年アテネ五輪団体金の冨田コーチらはみな、「お前ならできる」「ここでミスなく通せれば、一皮むける。それがエースだ」と背中を押してくれた。「可能性はゼロではない」。信頼に、持ち前の勝ち気が顔を出し始めていた。

昨年12月の全日本選手権後、原田監督から技の難度を示すDスコアで「37点台を目指そう」と提案された。「難しいんじゃ…」。本音だった。全日本から1点以上の上乗せ。0・1を模索する体操で、五輪選考会までも4カ月。ただ、期待を素直に受け入れた。

「兄ちゃん、これどう思う?」。冬場、選手だった長兄拓弥さん(24)にもたびたび連絡した。3兄弟の末弟、いつも兄に感想を求めてきた。小さい時には「オレの方がうまい」と兄をあおってケンカもした。他人の助言を聞く姿勢や、勝ち気は今も変わらない。1カ月前には「絶対勝つから見に来て」と兄を誘った。

決勝の得点は、19年の世界王者ナゴルニー(ロシア)の88・772点に迫る。同年12月の豊田国際では「オールラウンダーで輝かしい未来が待っていると思う」と当人から予言もされていた。「90点も夢じゃない」と見通し、「○○王子より、橋本大輝だと覚えてもらいたい」ときっぱりと返しもした。前人未到の90点超えで金メダル-。その時、世界が「橋本大輝」を知るだろう。【阿部健吾】

<橋本大輝(はしもと・だいき)>

◆生まれ 2001年(平13)8月7日、千葉県成田市生まれ。3人兄弟の末っ子で、長男拓弥さん、次男健吾さんが通っていた「佐原ジュニア体操クラブ」で6歳で競技を始める。

◆戦績 市船橋高で18年高校総体個人総合優勝など。19年世界選手権では白井健三に続く史上2人目の高校生代表で団体銅メダルに貢献。

◆1本 ここぞの集中力は中学まで通った佐原ジュニアで。ケガ防止用にクッションが詰まるピットがなく、常に緊張感を伴った。いまも「僕はピットで1本通ったら次は絶対に陸(ピットなし)で通す」。

◆無限君 中学まで世代別代表経験なし。高校入学後に急成長。市船橋高の大竹監督は「体力は『無限君』。1回の練習で何度も試技できる体力、やれるまで粘れる精神力に目を見張った」。高3時の技構成の90%は2年間で習得した。

◆目標 あこがれは16年リオ五輪団体総合金メダルメンバーの田中佑典で「小4で初めてテレビで見てきれいだと」。

◆得意種目、サイズ あん馬、跳馬、鉄棒。164センチ、54キロ

◆団体総合の代表選考 全日本選手権の得点を持ち越して行われるNHK杯(5月、長野)で上位2人に入れば代表に決まる。残りの2人は全日本種目別選手権(6月、高崎)にチーム貢献度で選ばれる。五輪では4人のうち2人が個人総合に出場する。