世界で最も若く、強い男が誕生した。男子個人総合決勝で橋本大輝(19=順大)が6種目合計88・465点で初優勝を飾った。92年バルセロナ五輪覇者のビタリー・シェルボを超える五輪史上最年少での優勝で、日本人としては5人目。ロンドン、リオデジャネイロ五輪と2連覇していた内村航平も成し遂げられなかった10代での世界王者となった。千葉の小さな体育館で育った男が、王位を継承。日本体操界の五輪でのメダル数で100個目となる節目に名前を刻み、8月3日の種目別鉄棒に挑む。

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100個のメダル。その始まりは1952年、ヘルシンキだった。戦後初の五輪参加となった大会。団体戦は8人制だが、競技力を日本オリンピック委員会(JOC)に認められず、経費の兼ね合いで最低人数の5人で海を渡った。まだ「体操ニッポン」と自国、他国ともに認めていなかった。

7月19日、団体戦が始まった。同時に種目別の順位も決まる。まずは規定。地元の観客は驚いたという。地元紙は「猫のように軽く、ゴムまりのように弾む」と書いた。その演技の1つが、当時は徒手と呼ばれた床運動の上迫忠夫だった。

21日の自由問題でも魅了した。リズミカルでダイナミック。客席から歓声が起きた。得点は合計19・15点。優勝したスウェーデン選手とわずか0・1点差の銀メダル。これが体操王国の第1歩だった。

上迫は当時30歳。戦争にも翻弄(ほんろう)された選手生活の晩年に歴史を刻み、跳馬でも銀メダルを獲得。64年東京五輪では協会員を務め、「ウルトラC」という言葉の生みの親ともされる。開成学園で長く教師を務め、87年に65歳でこの世を去った。

故郷の島根県で偉人の調査を行った母校の日体大には、貴重な資料が残る。収拾した伝記には、以下のような言葉が残る。

「オリンピックや世界選手権における勝負は、相手に勝つことではなく、自分自身に勝つことである」

「結果は人が評価する。君に大切なのはその過程だ」

「温室育ちは弱く、雑草は強い。自ら温室に入るな。進んで野に出でよ」

隆盛を極める今の日本体操界の選手にも響く重みのある訓示。この先メダル数が増えても、初メダルを生んだこの精神性は不変に通じるだろう。【阿部健吾】