体操女子種目別決勝の床運動で、村上茉愛(24=日体ク)が日本女子初となる個人種目でのメダルを獲得した。8人が出場した決勝で14・166点をマークし、同点のメルニコワ(ROC)とともに銅メダルをつかんだ。女子のメダルとしても64年東京オリンピック(五輪)の団体総合の銅に続く2個目。抜群の脚力が武器の「ゴムまり娘」がエースとして臨んだ集大成の舞台で、最高の結果を残した。

村上には心臓の音が聞こえていた。「どく、どく、どく」。前の演技者が終わり、今大会最後の演技の開始が迫った。待てば待つほど緊張感が増した。「怖い」。ただ、メダルにかけてきた思いが気持ちを奮い立たせた。「周りの人も強いし、周りも自分のことを強いと思ってくれているし、その中であと1分半頑張れば終わりだ」。覚悟は決まった。

6番目で登場した冒頭、小6で跳んだH難度「シリバス」を決めた。流れをつかんだ。「この1分半が終わってほしくないなと思って、自然と笑顔になった」。本当に楽しかった。最後の後方屈身2回宙返りをぴたりと止め、「満足している」。台を駆け降り、厳しい指導で知られる瀬尾コーチから抱き締められた。17年世界選手権の床運動で日本人63年ぶりの金を手にして以来「2回目のハグ!」と喜んだ。

1つのメダルが始まりだった。府中市の市民大会で母英子さんが中2でもらった金メダル。中学で体操を始めた母は、適性を感じながら、幼少期に始めた周囲との埋められない差を感じていた。ただ、確信はあった。競技歴2年で優勝できた。「私の子どもは体操が上手になる」。

次女の茉愛は、その予感通りだった。高所からのジャンプも恐れない。ただ、体操教室に通わせる時に、1つだけ懸念があった。「嫌々やってほしくないな」。自身が親に通わされた電子オルガン教室が、嫌でたまらなかった。中学で体操を見つけ、楽しさを知った。「楽しくやってほしい」。それを願った。

コロナ禍で五輪が1年延期になった昨年、2カ月ほど茉愛は実家に戻った。五輪開催も不透明。「このまま体操から離れちゃうのかな」と不安がわいた。そんな姿に母は言った。「試合できてないのはあなただけではないよ」。学生も試合はない。スポーツ選手以外も等しく、コロナ禍の影響を受けている。特別視をしてほしくなかった。

「いまできることをやるしかない」と伝えた。何より、楽しく競技をしてほしかった。その後は近所の公園で鉄棒をしたり、時には2人でダンスしたり。しばらくすると、「2年延期だってやるよ」と前向きないつもの姿が戻った。

小さな1つのメダルから始まった母と娘の運命。いま胸に銅メダルを掲げ、万感に浸った。「本当に続けてきて良かったな。母、家族がすごく自分の一番の支えで。性格、気持ち、感情が分かる家族がいたから、ここまで続けられた。よいお土産がもって帰れるかと思う」。その顔には「楽しい」という感情がぴったりな、心からの笑顔が揺れていた。【阿部健吾】

◆村上茉愛(むらかみ・まい)1996年(平8)8月5日、神奈川県生まれ。2歳で体操を始め、小学生の頃は池谷幸雄体操倶楽部に所属。17歳で13年世界選手権代表に選ばれ、種目別床運動で4位入賞。日体大に進学し、16年リオデジャネイロ五輪団体4位。17年世界選手権床運動で金メダル、18年個人総合銀メダル。148センチ、48キロ。