6試合で689球を投げ、金メダルを獲得した08年北京五輪から12年。ソフトボール日本代表の上野由岐子投手(36=ビックカメラ高崎)が38歳で再びマウンドに立つ。東京オリンピック(五輪)開幕まで12日で500日。日本のエースが日刊スポーツにインタビューに応じ、地元で迎える大舞台への思いを語った。12年ぶりに復活するソフトボールは開会式2日前の20年7月22日、自身の誕生日に福島で始まる。2度目の金メダルへ全身全霊を傾ける。【取材・構成=松熊洋介】

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日本の先陣を切って上野が被災地福島でマウンドに立つ。東日本大震災が起きた8年前の3月11日。当時は高崎にいた。強い揺れを経験、自然の怖さを知り、自分たちの無力さを感じた。人ごととは思えず、これまでも復興支援活動を幾度となく行ってきた。

上野 自分たちはアスリートとして、スポーツを通して何かを伝えることしかできない。プレーを見て喜んでもらい「見に来てよかった。選手と触れ合えてよかった」と生きる活力を与えられたらいい。東京五輪で復活したことで自分たちにはそういう使命があると思う。

北京五輪では、12年ロンドン五輪の実施競技から除外されることを知った上で金メダルまで上り詰めた。その後はいつ復活するかも分からない中で競技を続けてきた。

上野 五輪があるから続ける、ないからやめるとも思っていなかった。なかったとしても、ソフトボールを楽しんでいたと思う。周りに辞める人もいたが、正直自分には関係なかった。

そう言うが、やはり五輪への思いは強く、TVに出演してピーアールするなど、競技種目復活に尽力した。

上野 北京五輪までは自分の夢だけを追っていたが、その後はソフトボールとの向き合い方も変わってきた。正直また五輪を迎えられるとは思ってもいなかった。招致活動は自分が出たくてではなく、子どもたちのためにやっていた。

04年アテネ五輪で敗れた3位決定戦のオーストラリア戦。登板のなかった上野はエースとして認められていなかったと悔しがった。その後、4年間の厳しい練習を経て北京五輪で目標だった金メダルを獲得し、達成感で満たされた。だが、東京五輪の実施種目に決まったあとは、五輪への向き合い方に戸惑いを感じた。

上野 本当に出たいかどうか、本気で考えなきゃなと。アテネから北京の4年間が辛くて、またあの辛さに耐えるほどストイックになれるのか。ほぼ燃え尽きていた感じはあった。正直違った形でソフトボールを楽しんでいる自分がいた。

悩み抜いた末に東京五輪に「出る」と決意したのは16年11月の恩師宇津木麗華代表監督(55)の就任だった。アテネ五輪後、22歳だった上野は、現役引退して指導者となった宇津木監督と2人で渡米。これまで直球中心で、海外でなかなか通用しなかったが、現地のチームのコーチから変化球を習得。さらに息の長い選手になるための投球術を学び、日本一の投手へと成長した。

上野 米国の選手がどうやって抑えているか、技術だけでなく、取り組む姿勢なども教えてもらい、(アテネ五輪で負けた後の)悩みが小さいことに気付かされた。考え方や技術など180度変えてくれて大きな転機になった。東京五輪はここまで自分を育ててくれた(宇津木)麗華監督に恩返しのチャンスを与えられたと思って頑張りたい。

3度目となる東京五輪は38歳で迎える。

上野 毎年自分の体の変化を感じる。もちろん体力的な不安もあるが、若い選手に引けを取るような衰えは感じていない。対応力も身に着いてきたし、毎日進化している。進化しているうちは選手としてやれると思うし、気持ちが自分を動かしている。それがなくなったら終わりだと思う。

年齢を重ね、戦い方の意識も変わってきた。

上野 北京の時は自分が負けたら終わり、という意識だった。今は自分が全部投げて勝とうとは思ってない。周りに助けられながら勝利につなげたいと思う。世界に通用する投手を育てなければいけないし、若い世代がもっと頑張ってほしい。

2月、24年パリ五輪で開催都市追加種目からソフトボールの落選が発表された。それでも状況は違うが、競技への愛と金メダルへの熱い思いは今も昔も変わらない。

上野 やるなら結果出したい。目指すなら悔いのないようにやりたい。出ればいいというような中途半端な気持ちならすでに後輩に譲っている。(東京五輪後に)引退しても終わりじゃないし、ソフトボール人生はこれからも続いていく。

開幕日7月22日が自身の誕生日という運命的な巡り合わせ。

上野 すべて神様が仕組んだと思って、金メダルを取らせてほしいと願ってます。

神の力を借りなくとも、日々成長し続ける上野なら自分の力で金メダルを勝ち取れる。

 

◆04年アテネ五輪の上野 初戦(対オーストラリア)で先発するも、本塁打を浴びるなど4回3失点で負け投手となった。第4戦のカナダ戦で再び先発したが、0-0の8回に失点し敗戦。負ければ1次リーグ敗退が決まる最終戦(対中国)で完全試合を達成し、4勝3敗の3位で決勝トーナメントに進出。準決勝(対中国)で8回を完封するも、決勝進出がかかる3位決定戦(対オーストラリア)では登板せずに敗れ、日本は銅メダルに終わった。

◆08年北京五輪での上野 初戦(対オーストラリア)、第5戦(対中国)と第7戦(対カナダ)に先発して勝利。日本は6勝1敗の2位で決勝トーナメントに進出。準決勝の米国戦では9回に4点を失い敗戦も、同日行われた3位決定戦(対オーストラリア)では12回完投で決勝に進出。米国と3度目の対戦となった翌日の決勝では、完投して3-1で勝利。準決勝から2日間で3試合413球を投げ抜き、初の金メダルをもたらした。

 

◆上野由岐子(うえの・ゆきこ)1982年(昭57)7月22日、福岡市生まれ。小3でソフトボールを始める。柏原中、九州女高(現福岡大若葉高)を経て01年にルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)に入社。日本代表のエースとして04年アテネ五輪で銅メダルを獲得。1次リーグの中国戦では完全試合を達成。08年北京五輪では準決勝以降、3試合を1人で投げ抜き、金メダル獲得に貢献した。世界選手権では12、14年で金メダル、06、10、16、18年で銀メダルを獲得。リーグ通算297試合、228勝47敗、2193奪三振、防御率0.59。174センチ、72キロ。