ついに、やった。誰よりも、速く泳いだ-。パラ競泳のエース、木村敬一(30=東京ガス)が、悲願の金メダルを獲得した。本命種目の男子100メートルバタフライ(視覚障害S11)予選1位の木村は、決勝でもパワフルな泳ぎをみせ1分2秒57で優勝。08年北京大会に初出場して4大会目、金メダルを目指してから9年、猛練習を積み、米国に拠点を移し、通算8個目のメダルを最も輝くものにした。2位は富田宇宙(32=日体大大学院)で、今大会日本勢初の「ワンツー・フィニッシュ」となった。

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木村の手が、栄光のゴール板をたたいた。結果は見えない。泳ぎは決してよくなかった。「負けたかも」とも思った。タッパーの寺西真人氏からタイムとともに「1着」の声。その瞬間、涙があふれた。隣のコースの富田と強く抱き合った。ずっと涙は止まらなかった。

「この日のために頑張ってきて、この日って本当にくるんだなと思った」。号泣しながら言った。銀と銅のメダルを手に「次は金メダル」と誓ったのは12年ロンドン大会後。「長かったですね。自分も頑張ってきたし、多くの人の思いが重なっている」と言って、胸の金メダルに触れた。

9年前、母校日大教授で元日本代表選手、経験も豊富な野口智博氏に指導を請うた。肉体改造のために1日5食、激しい筋トレもした。マンツーマンで週に10回、経験したこともない過酷な練習も「オリンピック選手なら誰でもやっている」と突き放された。何度も心が折れかけた。自信を持って臨んだ16年リオ大会。銀2、銅2のメダルも、金には届かず。本命の100メートルバタフライ銀メダルに号泣した。「これだけやっても、だめなのか」。感じたのは悔しさと挫折だけだった。

東京大会を目指す決心はつかなかった。「やるなら金メダルしかない」と思いながら「もう、あの練習はできない」。リオまでが濃密だったから、反動も大きかった。決意したのは17年末。「逃げるように」環境を変えた。ただ、行き先は楽な道ではなかった。よりハードな道に飛び込んだ。

米ボルティモアへ単身渡り、ロヨラ大ヘッドコーチのブライアン・レフリー氏に師事した。「英語が話せないから、適当に相づちを打って。何とかなるんですよ(笑い)」。やらされる練習から自主的な練習を覚えた。水泳に対する取り組みも変わった。リオまでは肉体的に変わったが、今度は精神的に強くなった。

「特に、この1年はしんどかった」。新型コロナ禍での開催是非が問われた。さらに、自分自身への大きな期待もプレッシャーになった。「周囲でなく、自分で自分に期待した。それが、大きすぎて苦しかった」。米国へ戻れずに続けた孤独な練習もつらかった。

生まれつきの全盲でトップ選手になるのは大変。だから、富田をはじめ、世界中の選手が「キム」を尊敬する。リオ前に指導した野口氏は「米国という厳しい状況に自ら飛び込んだからこそ、メンタルも強くなった」と、成長を喜んだ。

「9年間長かったけど、この日が来て本当に幸せです」と木村。金メダルは見えないが、表彰式の君が代で号泣した。「僕が唯一、実感できる。我慢しなくていいかなと思って」。木村には見えなくても、その胸で金メダルは最高の輝きを放っていた。【荻島弘一】