東京オリンピック(五輪)男子サッカー日本代表のDF板倉滉(24=マンチェスターC)は昨季、期限付き移籍先のオランダ・フローニンゲンで全試合出場を果たし、クラブの年間最優秀選手に選ばれた。17日の強豪スペイン戦もボランチでフル出場し、欠かせない存在であることをアピールした。

19年から海外に移籍。ものおじしない性格で、チームメートとピッチ内外で交流を深めた。その信頼感は武器となり、結果にもつなげてきた。このコミュニケーション能力はどこで培われたのか。板倉の母奈保子さん(52)に幼少時代の話を聞いた。

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板倉はものおじすることなく、持ち前の明るさでどの環境にも溶け込む。言葉の壁のある海外で結果を残すことも、サッカーの技術はもちろん、コミュニケーション能力の高さゆえだろう。奈保子さんは、0歳から6年半過ごした社宅生活が原点ではないかと推察する。

板倉は父の転勤で、生後間もなく横浜から兵庫・西宮へ移った。約60世帯が暮らす社宅の敷地内には、公園があり、子供たちがのびのびと遊べる場所もあった。奈保子さんにとって初めて暮らす場所。不安もあったが、外に出ると社宅の小学生の子供たちが「赤ちゃん、かわいい」と遊んでくれた。歩く練習も小学生が手伝い、板倉を自転車の前かごに乗せて遊ぶなど、ほのぼのとした交流が日常だった。社宅の10世帯ほどで会社の保養所に遊びに行くこともあり、物心つく前から常に大勢の子供や大人が周りにいた環境だった。

奈保子さんは「第1子でしたし、たくさんの子供の中で育ててあげたいという思いがありました。社宅のおかげでできましたね。子供ばかりの環境だったことは、もしかして、そこ(すぐ溶け込める)につながるのかなと」と社宅の日々を懐かしむ。

サッカーに出合ったのも西宮だ。板倉の父は高校時代は野球に打ち込み投手だった。イチロー氏がメジャーリーグへ渡り活躍していた時期で、父は板倉に3歳でグラブ、4歳で木製バットをプレゼント。家での遊びはキャッチボールとバッティングセンターだった。ボールを投げるのがうまく、父は「センスがある」と喜んでいたが、小学1年生の春、学校のサッカー大会で賞状をもらったことを機に「おれ、サッカー入るわ」と、学校のサッカーチームへ通い始めた。

小学1年のとき、父の転勤で神奈川に戻ることになった。友達との別れはつらく、車の中で号泣した。そんな息子を見て両親は「滉の環境だけは整えてあげないといけないね」と、サッカーが好きな息子のためにサッカーチームを探し、さぎぬまSCへ。野球好きだった父も、スパイクを買って、板倉のサッカーの練習に付き添うようになった。

引っ越し先では当初、ボールを持って公園にいくと、「お前だれ?」と言われたりもしたが、通う度に自然と友達が増えていった。奈保子さんは「助けられたんですよね、サッカーに。環境を整えてあげることで、お友達もできて」と当時を振り返る。

引っ越した地は当時J2だった川崎Fのホームタウン。板倉が学校で「フロンターレの試合を見に行こう」とのチラシをもらって帰ってくると、奈保子さんはサッカーが好きな息子を等々力競技場へ連れて行った。板倉は目を輝かせ、ピッチのジュニーニョ、中村憲剛氏らに声援を送った。練習場にも足を運び、中村氏と一緒に写真を撮ってもらったことはいい思い出になっている。

奈保子さんが川崎Fのホームページを何げなく見ていたとき、下部組織にジュニア(小学生)を立ち上げるニュースを偶然目にした。息子と「受けるだけ、受けてみようか」と話し合い、募集要項をよく読むと、応募の書類締め切りが「翌日必着」であることに気づいた。奈保子さんは急いで書類を整え、フロンターレの事務所に持参した。滑り込みの応募だったがセレクションに合格し、フロンターレでの1歩を踏み出した。

そこからジュニアユース、ユース、トップへと昇格。今は海外へ羽ばたき、日本代表として東京五輪のピッチに立つ。好きなサッカーに打ち込む環境を整えた両親の支えが大きい。奈保子さんは「早生まれで東京五輪に出場できる年だった巡り合わせもあり、不思議な気持ちです。支えてくださった方々、五輪開催にご尽力された方への感謝の気持ちを持って、自分を信じて全力を出し切ってほしい」と息子にエールを送った。【岩田千代巳】

◆板倉滉(いたくら・こう)1997年(平9)1月27日、横浜市生まれ。小学4年で川崎Fの下部組織加入。15年、トップ昇格。16年8月、甲府戦でJ1デビュー。18年、仙台へ移籍。19年1月からマンCに移籍と同時にフローニンゲンに移籍。昨季は35試合出場、1得点。実家の愛犬・ニコ(チワワ)が癒やし。186センチ、75キロ。