フリースタイル86キロ級で、高谷惣亮(32=ALSOK)が3大会連続の五輪出場を決めた。

7日の決勝進出を決め、上位2人に与えられる東京五輪出場枠を獲得。日本協会の選考基準を満たし、代表に内定した。2大会に出場した74キロ級から階級を上げてつかんだ母国五輪。集大成の場で悲願の金メダルを目指す

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その瞬間、高谷にも思いがけない感情がわいた。「最初に浮かんだのが、弟への感謝ですね」。決勝進出を決める試合終了のブザーを聞き、恒例の勝利のパフォーマンスでド派手に自らを祝おうと思っていたが、体は動かない。「感極まった感じですね」。ゆっくりと両手で顔を覆い、愛する弟大地への気持ちをかみしめた。

過酷だった。4月のアジア予選(カザフスタン)、準決勝で不可解判定で敗れ、最終予選がラストチャンスになった。帰国後の隔離生活では、本来は体調、能力維持のための練習活動を認められているが…。「練習もできなかった」。日本協会がアジア予選の代表陣の体調不良者を申告しなかったことで、スポーツ庁が誓約書違反として隔離期間の特例措置を認めなかった。余波が直撃した。

マット運動なしで挑む競技人生初の試合が、人生をかけた最終予選だった。初戦を圧勝で滑りだし、2回戦では残り10秒から逆転勝ち。準決勝では、86キロ級では目を見張る俊敏さを生かし、階級増後に際立つカウンターの巧みさも披露。終始優勢に進め、7-2でねじ伏せた。「1日4試合は若い時以来。正直、体力の心配があった。ベストだしていくことだけ考えていました」と戦い抜いた。

逆境にも「僕は大会を楽しんできます」と現地へ向かった。「僕はひたすらポジティブ。体の8割はポジティブで、残り2割は優しさでできている」と自負する。その姿を見せたかったのが、弟だった。同じく東京五輪を目指してきたが、減量苦などに苦しみ、2年前はどん底にいた。19年2月の国際大会へ出発の成田空港では「2020」の看板でツーショットに応じたが、「あの時は弟はだいぶ心配でしたよ」。発言はすべて後ろ向き。「兄ちゃんはポジティブから生まれたピジティブ。自分はネガティブ中のネガティブ」と腐っていた。

その姿に「何とかしたい」と兄は必死だった。1つの手本が増量だった。自身が過度の減量苦から解放され、より日常体重に近い階級で戦えることを証明することが使命になった。86キロ級は欧米系の適性階級で、アジア人は不利。そんな定説を意に介さず、弟へ結果で証明したかった。「『すげえな』『そうなりたいな』と思ってもらうのが一番でしょ」。

その姿が弟を救った。階級を兄の主戦だった74キロ級に上げると、20年末の全日本選手権で準優勝。パリ五輪を目指して、再び代表候補となった。そして、4月のアジア予選から、帯同者としての兄弟タッグが復活した。その見違える動きに、「リオの時は精神面の支え。いまは素晴らしい練習相手。僕の対戦相手の研究をし、動きを忠実に再現してくれる」と共闘してきた。隔離期間も、その支えは不動だった。

「かっこいい兄ちゃんでいたいでしょ」。サラッと言う。どんな状況でも弱音を吐かないそのポジティブさ。優しさで弟を救い、そして支えられ、3度目の五輪舞台はなった。

「キャンセルにならないで良かったですね」。常々、「金メダルを予約している」と豪語してきた。あとは受け取るだけ。新型コロナウイルスのまん延で、世間からの逆風も感じている。「国民の理解も得られない中での舞台になると思いますが、その中でもアスリートたちはアスリートたちの信念を持って闘っていると思う。最終的にどうなるかわからないですが、そこで金メダルを取るために切磋琢磨(せっさたくま)しているので、みんなに祝福されるような選手、また大会になってほしいと思ってます」。現実の厳しさに目をつぶるつもりはない。ただ、いまは前向きに考えよう。それが、「かっこいい兄ちゃん」だ。【阿部健吾】

◆高谷惣亮(たかたに・そうすけ)1989年(平元)4月5日、京都府生まれ。小学校時代は空手で黒帯取得も、中1で本格的にレスリングを開始。網野高では総体優勝。拓大時代の11年全日本選手権で初優勝し、以降は階級を替えながら10連覇。ロンドン五輪16位、リオデジャネイロ五輪7位。14年世界選手権銀。愛称は「タックル王子」も、本人は「もう『タックルおじさん』ですね」。178センチ。

◆レスリングの五輪複数回代表 16年リオ五輪までの192人の男女代表で、49人が複数回を記録。最多は4回で男子フリーの太田章、女子の伊調馨、吉田沙保里がいる。3回以上は10人で、男子フリーでは高谷が9人目。92年バルセロナ五輪を最後に男子では3大会以上はおらず、29年ぶりの快挙となる。