【家族の力・宮本慎也】「勉強させません」 …野球博士を育んだファミリーヒストリー

ご両親の教育方針が、そのまま反映されていますね。顔も打撃フォームも、見事に面影が残っていますね。お父さまとそっくりです。それにしても宮本さん…か、かわいい~! 挿入写真もお見逃しなく。(2012年4月25日掲載。所属、年齢などは当時)

プロ野球

何でもいいから1番になりなさい―。ヤクルト宮本慎也内野手(41)が、史上39人目の通算2000本安打まで、残り8本に迫る。職人技の守備を買われて入団した男が、打撃で偉業を達成しようとしている。プロ野球選手会会長を3年間、04年アテネ五輪、08年北京五輪では日本代表キャプテンを務めた。球界を代表する存在になった根底には、父義行さん(61)、母美津江さん(67)の、厳しくも愛情あふれる教育があった。

小5、鳥取の海で(左から4人目)

小5、鳥取の海で(左から4人目)

1日だけ優しかった母

宮本は子どものころ、厳しい母が優しかった記憶が1日だけある。

暑い夏の日だった。小6年時で身長は147センチ。大阪の「藤白台少年野球部」では、小柄なエースとして活躍した。小学校最後の大会の朝、真夏に39度近い高熱を出した。

美津江さん 暑いでしょ。小学生で体も細いし、熱あるし。病院行って、注射で熱を下げて下さいって言ったんです。これから試合やから、注射して下さいって言ったんです。そしたら「死ぬで」って言われて。あー死んでもいいですって。この子は本望やろうから。好きな野球をしながら、マウンドで死ねたら幸せやろうから、いいです、注射打って下さいって。

小6、当時はエース

小6、当時はエース

解熱剤で体温を下げ、準決勝、決勝と1日で2試合完投して優勝した。炎天下で投げ終えた夜は、熱が上がり、立っていられないほどフラフラになった。41歳になった宮本は、看病してくれた母が、その夜だけは優しかったと記憶する。

美津江さん そうですか、優しくしたのは全然覚えてませんね。中学校の時は、目にボールが当たって、切って帰ってきたときにね。普通の親やったら痛かった? とか言うでしょ。私はあんた顔で受けるんやったら、グローブいらんなって。

義行さん イレギュラーしたみたいなんですけどね…。

美津江さん せやけどね、そこで優しく「痛かった?」って言うより、そう言うた方が、くそっと思って、また明くる日から頑張るでしょ。優しくしてたら絶対にアカン。行ったもんね、次の日の練習。眼帯して。慎也は言ってると思いますよ、オカンは怖かったって。

小1、巨人の帽子

小1、巨人の帽子

父は優しく、母は厳しい。それが宮本家のバランスだった。大阪・吹田市で生まれ育った。父義行さんは長嶋茂雄氏(巨人終身名誉監督)の大ファンだった。「野球」との出会いは小1の時。遊びに行った高知の砂浜で、石ころを海に向かって投げていた。

義行さん それをビデオで見たんです。私がビデオ大好きですから。その頃は8ミリです。投げ方見てね、他の小学生の投げ方と、ちょっと違う投げ方してたんです。

美津江さん あの時に言うてましたよ。こいつ、いけるんちゃうって。

投球フォームのバランスは、すでに抜きんでていた。小4で「藤白台少年野球部」に入団。団地の壁にチョークで小さな円を書いては、ボールを当ててコントロールを磨いた。

小5、お菓子を前にニコッ

小5、お菓子を前にニコッ

美津江さん 1つでいいから1番になりなさい。それはずっと言ってました。もう小さい時から言ってましたね。泥棒になるなら、日本一の泥棒になりいって。やっぱり、何か1つは、1つでいいから1番になってほしいなって。

やるなら1番を目指す。それが宮本家の教えだった。5歳下の妹奈津紀さん(36)は、中学時代に遅刻が多かった時があった。

美津江さん 先生にクラスで何番目ぐらいですかって聞いたら、2番目ぐらいって。ちょいちょい奈津紀、1番にならんといかんでって。言うたんです。

常識があればいい

宮本が野球で1番になるために、妥協は一切させなかった。小学校入学時には「末は博士か大臣かと思ってましたから。だから勉強してほしかった」(美津江さん)と問題集を解かせていたが、野球チームに入った小4から方針は180度変わった。

美津江さん 勉強はせんでいい。成績ぶら下げて歩かへんやろって。常識があればいい。だから好きなことを一生懸命しなさい。

義行さん (美津江さんは)極端ですからね。

小6になると、当時の担任の先生に呼び出された。

美津江さん ちょっとお勉強が…って。私は先生にね、いいんです、うちは勉強させませんって。好きなことを一生懸命させます。この子は今野球が大好きで、野球してるから、もしあかんかったら、高校がなかったら、もう何でもいいって。体はできてるし。できへんのは分かってるんやけどね。わが子は

かわいいんで。だから反対に、させませんって。

小6、スキー場

小6、スキー場

自宅では毎日牛乳1リットルに、どんぶりで大盛りご飯を食べさせた。当時の宮本の夢は甲子園に出場すること。だから中学校の軟式野球部ではなく、当時は珍しかった硬式野球「摂津シニア」に入団させた。美津江さんが必死に探したチームだった。

美津江さん 本人がしたいって言ったら、夢をかなえてあげたいって思うのが親ですから。線路敷いただけやけど、その後、うまいこと、そこに乗っかってくれただけで、私は口きいただけですけど。

義行さん 正解だったですね。やっぱり高校は、硬式をやってた子を優先しますからね。嫁はんの手柄ですわ。

東京都出身。2000年入社。
写真部、盛岡支局を経て、05年11月から野球部に所属。担当歴はロッテ―アマ野球―ヤクルト―アマ野球―NPB―遊軍―巨人。
直近は原監督が復帰した19年から2年間巨人を担当し、21年から野球部デスク。