【虎のお家騒動〈3〉ハマスタ審判暴行事件】TVKハイアップナイターの戦慄映像

2022年の阪神は騒がしい。矢野監督の退任表明に、開幕9連敗。過去にもいろいろありました。15年に掲載した大型連載「猛虎の80年」から衝撃の事件簿を復刻。第3回は「ハマスタ審判暴行事件」です。(2015年2月24日掲載。所属、年齢などは当時。本文敬称略)

プロ野球

衝撃的な事件の数々も80年の歴史をつくった。1982年(昭57)には「横浜スタジアム審判暴行事件」が起きる。島野育夫、柴田猛の両コーチが、判定をきっかけに審判員を殴り蹴った…。試合中のできごとが異例の刑事事件に発展し、永久追放も検討された。その後、星野仙一らを支えて名参謀となる島野再起の舞台裏に迫る。

◆島野育夫(しまの・いくお)1944年(昭19)3月30日、栃木県宇都宮市出身。作新学院―明電舎を経て63年中日入団。68年南海に移籍し、76年江夏豊らとの交換で阪神移籍。80年引退まで実働18年で1466試合、打率2割4分2厘、24本塁打、211打点。阪神、中日で長くコーチを務めたが、07年12月15日、胃がんのため63歳で死去。現役時代は175センチ、85キロ。右投げ右打ち。

■息子に取材攻勢…絶句、涙

島野育夫の表情が沈んだのは、息子の何げない一言だった。82年8月31日、横浜で起こした審判暴行事件。3日後に帰宅した様子を日本競輪学校74回生で13年に引退した長男の敦識(あつし、43)が振り返った。

島野敦識 僕は小5で事件の次の日は学校に行けませんでした。でも子どもだから外に出たくなる。出たらたくさんのマスコミの方がいて「息子さんですよね?」「お父さんは?」と囲まれて写真を撮られました。

父が帰ってきた時「知らんおっちゃんにそんなこと聞かれたよ」と言った時でした。「エーッ…」って涙をためて…。あんな悲しそうな顔を見たのは最初で最後です。子どもに影響を与えたことがかなりショックだったようで、長い間ふさぎ込んでしまいました。

審判に暴行を働く阪神島野コーチ(右端)=1982年8月31日

審判に暴行を働く阪神島野コーチ(右端)=1982年8月31日

島野が悔いた惨劇は、横浜での大洋戦だった。1―1の7回、阪神藤田平が三本間に打ち上げた。だが、三塁石橋貢が落球。打球はフェアゾーンに落ちた後、ファウルゾーンに転がった。

三塁コーチの河野旭輝が「石橋のグラブに触れて落ちた。フェアだ」と抗議。だが、三塁塁審の鷲谷亘は「触れていない。ファウルだ」と認めない。次の瞬間、阪神コーチ陣が審判を襲った。

■パンチ数発、引き倒す

当時の日刊スポーツは「審判を殴る蹴る」の1面見出しで凄惨(せいさん)な場面を報じている。

最初に一塁コーチの島野が鷲谷にパンチを数発見舞った。球審の岡田功が即座に退場をコールしたが、これに怒ったバッテリーコーチの柴田猛が岡田に暴行。2人は退場宣告後も両審判を引き倒すなど暴れ回った。

現役メンバーだった真弓明信(61=日刊スポーツ評論家)と、川藤幸三(65=阪神OB会長)にも苦い記憶だ。

真弓 早く止めなあかんと、ベンチを飛び出していた。怒る気持ちは分かるけど…。無我夢中で島野さんたちにしがみついていた。

川藤 裏で代打の準備をしていたら、急にベンチが静かになった。何やと見に行ったら大変なことになっとった。両コーチとも勝つために必死やったから…。

■傷害事件として捜査

岡田は「暴力団とは(野球)できない ! 」とブチ切れて、プロテクターをたたきつけた。審判団は引き揚げて没収試合を協議。慌てて審判室に走った監督安藤統男が平謝りで続行を願い出た。

夏休み最後の日で観客も多かった。岡田は「大変痛めつけられましたが、柴田、島野両コーチを退場させて再開します」と異例の表現でアナウンス。試合は10分後に再開されたが、事態は大問題に発展した。

謝罪会見を行う阪神島野、柴田コーチ。左は阪神小津正次郎球団社長=1982年9月1日

謝罪会見を行う阪神島野、柴田コーチ。左は阪神小津正次郎球団社長=1982年9月1日

岡田は全治2週間、鷲谷は同1週間。神奈川県警加賀町警察署は試合後、傷害事件として捜査を開始した。