【虎のお家騒動〈4〉田淵幸一電撃トレード】午前1時30分、梅田のホテルに召喚

2022年の阪神は騒がしい。矢野監督の退任表明に、開幕9連敗。過去にもいろいろありました。15年に掲載した大型連載「猛虎の80年」から衝撃の事件簿を復刻。第4回は「深夜の田淵トレード」です。(2015年2月26日掲載。所属、年齢などは当時。本文敬称略)

プロ野球

ファンが惜しむ大物放出も阪神80年の歴史で繰り返された。1963年(昭38)にはエース小山正明が山内一弘との「世紀のトレード」で大毎(現ロッテ)へ。75年には江夏豊も江本孟紀らとの交換で南海へ移った。そして78年オフ、主砲田淵幸一のトレードは「非情の通告」として語り継がれている。

◆田淵幸一(たぶち・こういち)1946年(昭21)9月24日生まれ、東京都豊島区出身。法政一から進んだ法大から、68年ドラフト1位で阪神入団。1年目に22本塁打で捕手初の新人王。75年、巨人王の14年連続本塁打王を阻み、初本塁打王。78年オフにトレードで西武移籍。82、83年の日本一に貢献し、83年正力松太郎賞。ベストナイン5度、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)2度。84年現役引退。90~92年ダイエー監督。その後は星野仙一氏が指揮した02~03年阪神、08年北京五輪日本代表、11~12年楽天でコーチを務めた。20年、野球殿堂入り。

★ドン・ブレイザー監督の意向

兵庫・西宮市の田淵宅の電話が鳴ったのは、11月16日に日付が変わった0時半のこと。相手は球団社長の小津正次郎。深夜の西武行き通告だった。

1時半に梅田のホテル阪神に呼び出された田淵は男泣きした。当時の日刊スポーツには無念の問答が掲載された。

──通告された心境は

田淵 今、何時だと思ってるんだ。こんな夜中にじっくり話し合えるわけがない。非常識すぎる。これがタイガースで10年やってきた者に対するやり方なのか。

──球団から経緯説明は

田淵 ブレイザーの構想に入っていない。根本監督はいい監督だから、西武で勉強しろということだった。阪神の無能をさらけ出している。オレを教育できなかったからほかへ出すと言っているようなもんだ。

──今更阪神に残れない

田淵 結局商品に過ぎない。使うだけ使ってポイと捨てる。修理を考えない。過去のトレードもみんなそう。ホント冷たい球団だ。

当時32歳。75年に巨人王貞治の14年連続を阻止して、初の本塁打王に輝くなど320発を放ち、人気も兼ね備えたスターだった。

だが腰痛など毎年故障に泣かされ、頭部死球の影響で邪飛に反応できないなど、全力疾走も厳しくなっていた。同僚だった川藤幸三(65=阪神OB会長)が明かす。

川藤 ブッちゃんは、腎臓も患っていて投薬治療の影響で太めになっていた。捕手の動きが鈍くなり、捕逸も目立った。そんな姿が「がんばれ !! タブチ君 !! 」の漫画に描かれたりもした。でもまさかチームの看板をトレードするなんて。

阪神から西武へトレードが決まり、取材を受ける

阪神から西武へトレードが決まり、取材を受ける

その年、チームは球団初の最下位。改革を旗印に就任した球団新社長小津と新監督ドン・ブレイザーは若手への切り替えを進めた。

一方、同年10月にクラウンを買収して福岡から所沢に移転した西武は、ファンを呼べるスターを望んでいた。