有楽町「アピシウス」で半年間、王貞治を口説き続けた―/瀬戸山隆三という男

長く巨人中心で回ってきた野球界。パラダイムシフトを起こしたのは、王貞治氏のダイエー監督就任がきっかけではないでしょうか。陰日向に奔走した瀬戸山隆三氏の貴重な証言。書き下ろしで送ります。

プロ野球

「人は愛」。この思いを胸に、プロ野球の監督人事という難しい仕事を巧みにさばいた男がいる。

5年前にオリックス顧問を退任した瀬戸山隆三氏(68)。日本シリーズのON監督対決を実現させた裏方でもある。

ダイエーを皮切りに、ロッテ、オリックスと渡り歩いた。名監督誕生や逆風の中の契約不更新など、剛腕ぶりが今も語り継がれる。

精肉売り場→人事部→球団買収調査室

その力量を世に知らしめたのは、王貞治氏のダイエー監督招請だろう。瀬戸山氏は1993年(平5)にダイエーの球団代表に就任すると、当時の根本陸夫監督から思いがけない仕事を託された。

「初対面の席でとんでもないことをおっしゃったんですよ。『オレの後任はワンちゃん(王貞治)だ。巨人とダイエーでON対決をしなきゃいけない』と言われました。そして『オレはすぐ辞めるからな。後は自分で考えろ』と(笑い)」

王氏の電話番号だけ渡された。球団発表では「(94年)7月から交渉開始」となっているが、実は94年の1月から水面下で日参が始まっていた。

有楽町にある高級フランス料理店「アピシウス」で初対面が実現した。他の客と顔を合わせることなく個室に行ける、特別な店だった。

王氏を前に、緊張の面持ちで口を開いた。「20世紀中にON対決を実現させて、野球人気の回復にひと役買って下さい。福岡ドームという舞台は整ったので、あとは役者だけです」と、精いっぱいの口説き文句を並べた。だが「私は東京しか知らない。セ・リーグしか知かしらない。巨人しか知らない。パ・リーグは別世界ですからお引き受けするのは難しい」とあっさり断られた。

王監督と話し込む=2002年10月12日

王監督と話し込む=2002年10月12日

会食後、根本氏に報告すると、「とにかく攻めろ。YESというまで行け」とハッパをかけられた。そこから粘って、毎月1回「アピシウス」での極秘会談が続いた。

3回目までは膠着(こうちゃく)状態だった。4回目の席で、たまたま王氏の携帯電話にかけてきた相手が、瀬戸山氏と共通の福岡在住の知人だった。これで潮目が変わった。「福岡にも知り合いがおられるじゃないですか。みんな応援してくれますよ」と畳みかけた。6回目の席で「中内さん(功社長)にお会いして、そこで決めます」と大きく前進した。

ただ、まだ最悪の事態に陥る可能性があった。「その席で断られたら、僕はクビになると思いましたよ」。会食の前日、電話で自身の立場を説明すると、「引き受けるつもりではいます」と承諾を得た。この交渉を通じて、心が通い合った気がした。

94年10月12日、ダイエー王監督誕生のニュースが駆け巡った。

30年間、巨人一筋できた「世界の王」が初めて他球団のユニホームに袖を通す。期待と興奮に沸く福岡のネオン街を見ながら、ふと「オヤジが生きていたら喜んでくれただろうな」と父親の顔が浮かんだ。

父・英秋さんは54歳で他界した。「オヤジは野球が大好きで、小さい頃はよく球場に連れていってもらいました。だけど42歳で全身ガンになってしまい、運のない人生だったように思います。僕には医者か弁護士になってほしかったようですが、商社5つすべて落ちて、ダイエーの肉売り場でしょ」と苦笑した。

投球練習する中内オーナーを見つめる=98年5月21日

投球練習する中内オーナーを見つめる=98年5月21日

大阪市立大を卒業後、77年にダイエーに入社した。最初の配属先は精肉売り場だった。精肉を極めようと茨城の専門学校まで通ったが、その直後に人事部に異動となる。そして32歳で「球団買収調査室」に配属された。「中内さんに呼ばれて、いきなり『南海ホークスを買収せい』でしょ。右も左も分からない、プロ野球の世界に飛び込むことになったんですよ」。

ダイエーの鈴木達郎専務とともに、水面下で情報収集にあたった。中内氏の希望だった神戸ではなく、誘致を持ちかけられた福岡に本拠地を移転することで話を進めた。

そして88年11月、南海電鉄からの球団買収に成功し、総務課長として球団に出向することになった。

「南海ホークスを譲り受け、王監督を招請したと言えたら、オヤジは幸せだったかもしれんね」と笑った。

03年にダイエーホークス代表を退任した。最後の日。中内オーナーが神戸メリケンパークオリエンタルホテルで2人きりの送別会を開いてくれた。これまでの労をねぎらわれ、最後に「君のふるさとはずっとダイエーや。何かあったら、いつでもゆうてこんとあかんわな」とニコッと笑って送り出してくれた。「この言葉は一生忘れません」。温かい言葉に背中を押され、翌年から千葉ロッテへ移った。

04年~ロッテ社長 赤字削減と脱バレンタイン

2度目の難しいかじ取りは、ロッテ・バレンタイン監督に対する契約不更新だった。

04年にロッテ球団社長に就任。05年には、バレンタイン監督を擁して31年ぶり日本一を達成した。

同監督とはその年に2年契約が満了し、06年から新たに4年契約を結んだ。ところが08年オフ、重光昭夫オーナー代行から30億円(推定)の球団赤字を削減するよう厳しく命じられ、年俸の高い監督を軸にリストラを断行せざるを得なくなった。

年俸5億円(推定)とも言われたバレンタイン監督。同監督の専属コーチやスタッフなど、10人近い関係者による総年俸は10億円(推定)に上った。

1990年入社。アマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏、2006年夏の甲子園を制した早実・斎藤佑樹氏など取材。
プロ野球ではロッテ・バレンタイン監督解任騒動。DeNAの球界参入から中畑清初代監督フィーバーなど担当。
ストレス発散は1人カラオケ(ミスチル縛り)とゴルフ。