【西武週間〈2〉あのドラ1の今】高木大成氏のノックを受けに、西武球場前行きに乗車

ウィークデー通しの西武特集。第2弾は、ファンから深い支持を得たバイプレーヤーの今です。32歳で岐路に立った高木大成さん。背広組を選び、ビジネスマンの道を選び、着実にキャリアを踏んでいます。手がけた仕事の代表格は「サラリーマンノック」。腕まくりをしたニッコニコのサラリーマンが、グラウンドに長蛇の列を作っていたことを、よく覚えています。

プロ野球

◆高木大成(たかぎ・たいせい)1973年(昭48)12月7日、東京・八王子市生まれ。神奈川・桐蔭学園入学時は投手だったが、甲子園優勝捕手の土屋監督に見込まれて捕手転向。主将の3年時に1番、捕手で甲子園に出場し、2試合で7打数3安打、4打点を記録した。慶大を経て95年ドラフト1位で西武入団。1年目の96年は捕手でスタートしたが97、98年は一塁手でゴールデングラブ賞を連続受賞。00年からは一塁と外野手を兼ねていた。通算成績は720試合で2280打数599安打、打率2割6分3厘、56本塁打。179センチ、79キロ、右投げ左打ち。

桐蔭学園時代。、三拍子そろった捕手として早くから話題となった=1991年8月11日、夏の甲子園1回戦の熊本工戦

桐蔭学園時代。、三拍子そろった捕手として早くから話題となった=1991年8月11日、夏の甲子園1回戦の熊本工戦

?事業部部長 ライツビジネス

ビジネスバッグは、傷痕の残る右腕ではなく左手で持っている。高木大成氏(48)はワイシャツをまくり上げ、右肘をグイッと突き出した。

「最初は、いわゆるネズミと言われている欠けた骨を取って、最後の3カ所は右手首と尺骨神経のところと、ここ(肘)のところ。最終的には小指と薬指に全然力が入らなくなってしまって。当時は血行障害も出ていて、ペットボトルも開けられなかった。左バッターだったので、ここが使えないと話にならないんですよ。ヘッドに力が伝わらないんで」

右足首、左膝含め4度にわたる6カ所の手術跡は、今もクッキリと残っている。

2005年限りで現役引退し、今の肩書は、西武球団の「事業部部長」。映像コンテンツを球団が自前でつくり、あらゆるメディアに販売する。

放映権と肖像権を取り扱うライツビジネス。その事業の責任者として、一手に任されている。主催試合が行われる日は、ベルーナドームの中継ルームに通う。夏場になるとクライマックスシリーズ進出を見越して、各メディアに販売の営業をかける。「楽しくやらせていただいております」。笑顔に充実感が漂った。

いわゆる「華のある選手」。ファンに愛されたまま05年限りで引退=2000年8月23日

いわゆる「華のある選手」。ファンに愛されたまま05年限りで引退=2000年8月23日

ユニホームを脱いだ時、球団職員の道を選んだ。05年に戦力外通告を受け、現役続行を目指すか引退か迷っていた。

03年オフに4度目の手術を受けた。翌04年はプロ入り初の1軍登録ゼロ。ただ、浮上の手応えをつかんだのが05年だった。昨年より今年、今年より来年と回復の実感はあっただけに、踏ん切りがつかなかった。

?32歳 ネクタイ締めるならギリギリ

球団からは、現場か職員か。選択肢を与えられていた。そのとき32歳。「ネクタイを締めるならギリギリか…」。その後、グループ会社からの出向という形で、球団職員としてユニホームをスーツに着替えた。

新たなフィールドは、まさに異世界だった。

「カルチャーショックどころじゃない。ビジネスメールが打てない。名刺交換もしたことがない。会社の電話って、いっぱいボタンあるから取り方も分からない。そんな状況ですから。もう見よう見まねでした」

最初は「ファンサービスチーム」という、営業部内でできた新たなグループに配属。ちょうど、球団が変わろうとしていたときだった。

04年に、近鉄とオリックスの吸収合併による球界再編問題が巻き起こった。さらに10球団1リーグ構想が持ち上がるなど、球界全体に危機感が充満していた。引退した05年、西武の観客動員はパ・リーグ6球団のうち5位。例外ではなかった。

?稼頭央、松坂…なぜ閑散

でも、当時の西武は強かった。80年代から90年代にかけて、リーグ優勝13度、高木も97、98年の連覇を含め、4度の優勝を経験。現役での10年間すべてAクラスだった。

「チームが強い。松井稼頭央、松坂大輔というスター選手もいる。なのに、あんまりお客さんが入らない。選手としてもすごいモヤモヤしていました。弱いならまだしも、強いのにって」

観客動員に苦しんだ時代を知っている。日本シリーズでも空席が目立つ、当時の西武ドーム=2004年10月19日

観客動員に苦しんだ時代を知っている。日本シリーズでも空席が目立つ、当時の西武ドーム=2004年10月19日

試合前のシートノック。グラウンドから見渡すと、スタンドの観客がまばらなことが多かった。理由は分かっていた。当時、ファン感謝デーイベントは他球団と比べて大きく後れを取って、05年に初めて開催。球場の広告看板も多くなかった。勝つことは求められたが、親会社の広告塔としての意味合いが色濃く、営業面では後れを取っていた。少なくとも高木は、そんな雰囲気を感じ取っていた。

球界再編の余波を受けるように、球団内で組織改革が行われ、「ファンサービスチーム」は、球場を訪れたファンの満足度を上げるシンボル的な部署だった。何から手をつけていいのか分からず、最初は開門直後に入口に立った。引退直後で、高木の知名度はファンに絶大。求められたサインをずっと書き続けた。

?グラウンドに立てば分かる

08年には「サラリーマンナイト」企画で、試合後のグラウンドにファンを入れ、自らノックを打った。