【尼崎キャバレー野球団〈3〉】戦火をくぐって 生き延びて 今、野球ができる

商都・大阪と港町・神戸に挟まれた庶民の街、尼崎。その昔、駅前商店街にあったキャバレー野球団の物語。5回連載です。(2019年6月27日掲載。所属、年齢などは当時)

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時間を取り戻す

「なぜ君たちは野球をやるのか」

1950年(昭25)、高校を出て、川崎重工の野球部でプレーを始めた目見田(めみた)寛さん(87)は、人事部幹部からの問いかけが忘れられない。

いくらか会社の宣伝にはなるからだろう、などとのんきに構えていたら、背筋が伸びるような答えが返ってきた。

「力を合わせて、社会に貢献するのがわが社の使命だ。君たちは、そのシンボルなのだ」

だから職場のみんなで応援するんだと聞いた。試合に出ても、優勝しても手当はつかない。なぜなら、お金のために野球をやっているわけではないからだ-。

「お金のため」。それは、当時、アマチュアがプロに抱いていた嫌悪感みたいな気分を表してもいた。

社会人に限らず、高校も大学も、アマは「精神」でプレーする崇高な野球。プロは芸を見せて金を取るサーカスみたいな野球。1試合いくらでチームを渡り歩く「野球ゴロ」も少なくなかったし、「プロ崩れ」なんて差別的な呼び方もあって、アマ球界には、プロをさげすむ空気が根強くあった。

だから「プロ崩れ」が主力を担うチームは、強くても1段低く見られた。

社会人野球に参入してすぐ、産業別対抗の全国大会「サンベツ」に出場したとはいえ、キャバレー春美にも、そんな視線が向けられていた。

だが、元プロもアマも、選手たちが共通して抱いていた思いがある。

銃をバットやグラブに持ち替えた若者たちは、大学に復学し、企業に就職し、戦争に奪われた時間を取り戻そうと、こもごも野球を続ける道を探した。「野球を続けたい」という気持ちに、元プロもアマも関係などなかった。