【尼崎キャバレー野球団〈5〉】4年で…庶民の街で「春美」は輝き はかなく消えた

商都・大阪と港町・神戸に挟まれた庶民の街、尼崎。その昔、駅前商店街にあったキャバレー野球団の物語。5回連載です。(2019年6月29日掲載。所属、年齢などは当時)

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1955年を最後に

店のステージにユニホーム姿の選手たちをずらりと並べた「春美」の社長は、すこぶる上機嫌だった。

「このチームが東京へ行ったんや!」

1952年(昭27)秋、春美は、社会人野球への参入初年度で、産業別対抗の全国大会「サンベツ」に出場。初戦敗退したとはいえ、キャバレー社長の道楽にしては、上々の出来だった。

「ほれほれ」と社長に促されてボックス席に座った選手たちは、ホステスに囲まれて、大いに飲んで騒いだ。もちろんマネジャーの言いつけは、しっかり守ったという。

「百万弗(ドル)」「ナナエ」「ミス東京」-。当時の尼崎には、キャバレーが数多くあった。中でも春美は、専属のバンドと有名歌手を招いたショーに、美人ぞろいと評判のホステスが花を添える「大バコ」の人気店だった。

「社長」は、愛媛県出身の檜垣朝一(あさいち)さん。とりわけ音楽とスポーツを愛する趣味人にして男前、情にもろい人だった。

ママとして店を切り盛りしていたのは、妻のシズヱさん。女優の山田五十鈴に似た美人だが、やくざ相手に1歩も引かない迫力で「尼崎3大ママ」に数えられたという。

朝一さんのめい、檜垣きく江さん(71)が振り返る。

「働き者の伯母が稼いで、伯父が道楽に使う、という夫婦でした。野球チームについて伯父は生前『金食い虫や』とこぼしていたそうです」

チームは53年に「春美クラブ」、54年は「春美」と登録名を変えたが、初年度以上の戦績を残せず、55年を最後に社会人野球史から消えた。