クレバーな志村亮VS無骨な石井浩郎/東京6大学を語ろう〈1〉【慶大・早大編】
東京6大学野の大物OBに語ってもらった、神宮の魅力をプレーバック。しのぎを削った日々を宝物に、あらゆる業種で輝きを放っています。(2015年9月8日掲載。所属、年齢などは当時。本文敬称略)
その他野球
1925年(大14)に始まった東京6大学リーグは今秋、満90周年を迎える。翌26年に完成した神宮球場を舞台に名勝負が生まれ、多くの名選手を輩出してきた。各大学を代表する野球部OBが、神宮を沸かせた当時を振り返ります。第1回は慶大で5試合連続完封、53イニング連続無失点のリーグ記録を樹立しながら、プロの道に進まなかった志村亮(49)、早大で4番を張った参議院議員の石井浩郎(51)両氏の登場です。
5連続完封でもぶれず 三井不動産へ…志村の信念
◆志村亮(しむら・りょう)1966年(昭41)8月3日、神奈川・藤沢市生まれ。桐蔭学園で2年春と3年夏に甲子園出場。慶大では1年春からリーグ戦に出場し、通算31勝(14完封)17敗、防御率1・82。ベストナイン3度。89年に三井不動産入社。社業の傍ら92年からクラブチームに所属し、08年夏から10年夏まではウィーン '94 で選手兼監督。現在は慶大の技術委員長を務める。
88年秋、早慶3回戦。5安打完封で大学最後の登板を締めくくった志村は、クールダウンのキャッチボールを断った。「もう肩は使わないから―」。
通算31勝。ドラフト1位競合確実とされた左腕は静かにユニホームを脱ぎ、野球部のない三井不動産に就職した。
高校野球の名門、桐蔭学園から指定校推薦で慶大に入学。受験によるブランクもなく、上級生が右腕ばかりだったことから、1年春から先発起用された。
球速は135キロ程度だったが、緩急と正確な制球で開幕カードを完封。同秋の早大戦では、リーグ史上初の投手による満塁弾を放つなど投打に活躍し、慶大57年ぶりの全勝優勝に貢献した。ユニホームのストッキングに、その証しである白線が1本、足された。
「快挙という言い方をされましたけど、負けなかったことが素直にうれしかった。ケガなくいけば、ドラフト候補にはなるのかな、という気持ちはありました」
年々積み重なる白星に比例するように、7球団のスカウトからアプローチがあった。
中学の卒業アルバムには「将来の夢 プロ野球選手」と書いた。だが実現が現実味を帯びてくると、至極冷静な自分がいた。
「夢やあこがれではすまない。職業として強くイメージできなかったんですね」。4年春シーズンの開幕前には「リーグ戦の成績がどうであろうと、プロには行かない」と決めた。監督にも、相談しなかった。
4年春から秋にかけて打ち立てた5戦連続完封と、53回連続無失点はいまだに破られていない大記録。だから余計に、プロを勧める声が上がった。「でもね、行かないと決めたから、できたんじゃないかとも思うんです。肩がつぶれても構わないと、全力を出せたのかも。できすぎです。もう1回やれって言われても、無理(笑い)」。
開き直って生まれた大記録。プロだけが、球児の目指す道ではない。「後輩たちには企業でも社会人野球でも、どこの社会に進んでも通用する人間力を4年間で培ってほしい」。
志村の4年時は、慶大野球部100周年の年だった。数年前からは10年後の同リーグ100周年に向け、各大学のOB会に働きかけを開始。かつて「幻のドラフト1位」と言われた左腕は今も、6大学リーグ発展に尽力している。
秋田高の先輩に挟まれアーチ…石井の感慨
◆石井浩郎(いしい・ひろお)1964年(昭39)6月21日、秋田・八郎潟町生まれ。秋田高から早大に進み、リーグ通算は打率2割4分1厘、15本塁打、42打点。プリンスホテルを経て89年ドラフト3位で近鉄入団。94年に33本塁打、111打点で打点王。巨人、ロッテ、横浜に移籍し、02年に現役引退。通算974試合で894安打、162本塁打、536打点。10年7月の参院選秋田選挙区に自民党から立候補し、初当選。現在2期目。現役時代は183センチ、94キロ。
「志村はコントロールがよくて、キレがよくてね。プロに行っても勝てただろうなあと思います」。
慶大が全勝優勝を果たした85年秋。最後の早大戦で、3年生で相手4番に座っていたのが石井だった。
4年間でリーグ歴代12位タイの15本塁打。志村が秋の投手ベストナインなら、春の三塁ベストナインが石井だった。
ワセダの門をたたくのは必然だった。「早慶戦の、甲子園とはまた違った、ちょっと大人な雰囲気に憧れたんです」。
