アンタッチャブル・レコード 山中正竹の48勝/東京6大学を語ろう〈5〉【法大編】

東京6大学野球の「アンタッチャブル・レコード」といえば、法大・山中正竹のリーグ戦通算48勝です。小さな大投手に宿る強烈な自負。(2015年9月15日掲載。所属、年齢などは当時)

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技巧派左腕のパイオニア

ID野球ではないが、山中は間違いなく〝考える人〟だった。

2年上にはリーグ戦歴代最多の127安打(当時)を誇る明大・高田繁、同学年には中日で2000安打を達成した早大・谷沢健一らがいた。当時、左で140キロ近く投げていた山中は、切れのある快速球といわれていた。だが、そのまま何も考えずに押し通していたら、記録は生まれなかっただろう。

◆山中正竹(やまなか・まさたけ)1947年(昭22)4月24日、大分県生まれ。佐伯鶴城―法大。東京6大学通算48勝は最多勝記録。住友金属では新日鉄広畑の補強選手で優勝。住友金属監督として都市対抗、日本選手権を制覇。92年バルセロナ五輪で監督を務め、銅メダル獲得。法大監督では優勝7回。03年から10年まで、横浜ベイスターズ(現DeNA)専務取締役。16年、野球殿堂入り。野球連盟副会長、全日本野球協会会長、侍ジャパン強化本部長など歴任。左投げ左打ち。

転機があった。1年春の新人戦で左肘に死球を受けた。その後、かばった投げ方をして左肩を痛めた。

そこで考えた。当時は右打者の内角へのクロスファイアと、膝元に落ちるカーブが左腕の理想だった。それだけでは、落ちた球威を補えない。「外角に抜けて沈むボールを投げればいい。フルスイングさせなければいい」と。

リーグ優勝を決め、涙を見せる田淵幸一(左)―山中のバッテリー=1967年10月22日、神宮球場

リーグ優勝を決め、涙を見せる田淵幸一(左)―山中のバッテリー=1967年10月22日、神宮球場

当時の新聞には秋季リーグ開幕前に「スクリューボールで勝負だ」の見出しが躍った。右投手のシンカーで、直球の軌道から外へ逃げて沈んだ。

今は167センチのヤクルト石川が武器とする。当時の打者は「ボールが動いて打ちにくい」と感じていた。まだ直球の軌道から微妙に変化する球種は珍しかった時代だ。

1年秋には高田に生涯初の本塁打を浴びた。2年春には谷沢に、左打者では初めて左中間に本塁打を許した。さらに進化が必要だった。「少し指を広げてみようとか、いろいろ考えるわけです。横のカーブはどうだろうとか」。

前者がフォークで、後者がいま流行のカットボール。「シンカーを投げ始めたのは僕だと思う。左投手の概念を変えて、ややこしくしたのは僕かもしれない」と言って笑った。