10年前に東北を取材した現フィギュア担当 仙台育英に突き動かされ甲子園へ

仙台育英の甲子園優勝を見届けた記者が、感情より強い「情動」に突き動かされて書いたコラムです。2011年から2年間、東北総局で高校野球を担当。優勝旗の白河越えにかける6県の野球人を、目の当たりにしていました。いつかの日のために大切にしまってきた熱を、長文結びの一文まで放出しています。

高校野球

一夜明け、凱旋の仙台駅はこの活気。深紅の大優勝旗はジュラルミンケースにしまわれ、無事に白河の関を渡った

一夜明け、凱旋の仙台駅はこの活気。深紅の大優勝旗はジュラルミンケースにしまわれ、無事に白河の関を渡った

迷わず休暇 

生で見た。仙台育英(宮城)と聖光学院(福島)の東北勢による準決勝対決が決まった瞬間、迷わず休みを取った。

決勝前日10時のネット販売開始からPCの更新ボタンを連打し、午後が日陰になる甲子園の一塁指定席チケット(中段)を確保。4番斎藤陽の先制打も、5番岩崎の決勝史上4人目となる満塁本塁打も、東北6県108年目の宿願が成就した27個目のアウトも、全て携帯動画に収めることに成功した!(も、もちろん個人的に楽しむためのものです)。

いつも相手校に見せつけられてきたマウンド上の歓喜の山を、深紅の大優勝旗の授与式を、ついに。感慨深かった。

春夏1度ずつ優勝の長野県出身だが、みちのくで1度でも高校野球を取材すれば、記者も皆、夢は白河の関越えになる(…はず)。担当を離れ、東京に帰任して10年になるが、歴史が変わる瞬間は見逃せない。

家族を連れて弾丸観戦した。試合後は須江監督の夫人とお子さん2人を祝福し、記念撮影もしていただいた。本当におめでとうございます!

学校に戻り、優勝の祝賀会。佐藤悠人主将が高々と優勝旗を掲げる

学校に戻り、優勝の祝賀会。佐藤悠人主将が高々と優勝旗を掲げる

東北総局に在籍していた11~12年には、田村龍弘(ロッテ)や北條史也(阪神)で史上初の3季連続準優勝を記録した光星学院(現八戸学院光星=青森)の世代、大谷翔平(エンゼルス)を擁した花巻東(岩手)の夏春2度の聖地挑戦など担当したが、扉はなぜか、東北勢には重かった。

1915年(大4)の第1回大会から107年。決勝で秋田中(現秋田)が京都二中(現鳥羽)にサヨナラ負けして以来、東北のべ546校の球児の悔し涙が染み込んだ黒土に、大会最終日に、ついに須江監督のうれし涙が、選手たちの笑顔が最後まで残った。

東北勢の決勝進出は春3回、夏10回。やはり夏に勝った。

まず春は、当初は「東北地区は寒冷地」との理由で出場選考の対象外だったほど不利だった。28年には、福岡(岩手)が出場校に選抜されたものの、大会本部にこう電報を打っている。

「雪による練習不足のため出場を辞退したい」

秋田商で春8強2度の小野平元監督でも「昔はひたすら雪解けを待っていた。ノックなんて無理。ボールにも触らなかった」と回想していた。土の上での練習量が絶対的に不足していたことは、春の決勝進出が01年の仙台育英、09年の花巻東、12年の光星学院と、すべて21世紀に入ってからだったことが物語る。

駒苫の躍進 気候は言い訳 

ただ、あの〝事件〟に言い訳できなくなった。

スポーツ

木下淳Jun Kinoshita

Nagano

長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。