雑誌「セブンティーン」にも大ちゃん担当記者とカメラマンがいた/荒木大輔〈6〉
背伸びしない、自然体の魅力は、早実のよき校風がバックボーンにあるのでしょう。荒木大輔の日常を切り取ってみると、いつの時代も変わらぬ等身大が伝わってきます。折り返し、後半突入の連載〈6〉。(2017年7月18日掲載。所属、年齢などは当時、敬称略)
高校野球
★女子高生100人
1年秋の秋季東京大会で2季連続となる春のセンバツ出場を決めた荒木は、腰痛に苦しんでいた。
「秋の大会まではやったけど、秋の大会が終わってからは腰が痛くて。練習はあまりできなかった。疲労性だったと思う。腰は、大会が終わると重だるいみたいなのはあった。肘もそうだよね」
思うように調整は進まない。焦りが募る荒木の事情とは関係なく、空前の「大ちゃんフィーバー」は続いていた。
各スポーツ紙には荒木のための「番記者」が誕生し、アイドル雑誌や週刊誌も追っ掛けを開始する。「女の子の雑誌も全盛だった。(雑誌)セブンティーンにも担当記者と担当カメラマンがいたから」。
連日グラウンドには100人を超える女子高生が集まった。当時は現在のような携帯電話やSNSのない時代。「あったら恐ろしかった」という日々が続いた。
★81年春 優勝候補も…
優勝候補に挙げられた81年春のセンバツ。初戦の東山(京都)戦は大会第1日、開会式後の第2試合だった。腰痛のため、万全の調整ができなかった荒木は、8回途中まで9安打で4四死球を出すなど6失点。2-6で初戦敗退した。
「開会式の直後で、始まったら帰るみたいな感じだった。腰は違和感はあったかもしれないけど、できない感じじゃなかった。練習できなかった方が響いていると思う」
1年夏の準優勝を上回る結果を期待した荒木ファンは、信じられないものを見るような思いだった。ただ荒木の感覚は違った。

東京都出身。2000年入社。
写真部、盛岡支局を経て、05年11月から野球部に所属。担当歴はロッテ―アマ野球―ヤクルト―アマ野球―NPB―遊軍―巨人。
直近は原監督が復帰した19年から2年間巨人を担当し、21年から野球部デスク。