11選手、道具は各自持参…1915年、高校野球が始まった/黎明期の高校野球〈1〉

高校野球の黎明期を探ろう―。2015年の6月、アマチュア担当のベテラン記者陣が中心となって大型連載を執筆しました。100年以上前の先人たちに敬意を表し、タイムマシンに乗りませんか。(2015年6月2日掲載。所属、年齢などは当時)

高校野球

1915年(大4)に第1回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)が行われてから、100周年の夏が始まります。「高校野球 100周年の夏 野球の国から」と題し、歴史や名シーンを振り返る連載を行います。1まずは10回にわたり歴史をひもとき、先人たちの思いを追います。

★阪急豊中駅 徒歩7分

大阪・豊中市の阪急豊中駅を降り、新興住宅地を歩く。およそ、7分。閑静な街に建つ新築物件の片隅に、その場所はある。

「高校野球 発祥の地」

球場の跡形はない。当時の赤れんが塀が、再現された小さなスペース。まだ甲子園球場が誕生する前、1915年に夏の甲子園大会の前身、第1回全国中等学校優勝野球大会が行われた豊中グラウンドの跡地だ。

◆豊中グラウンド1910年(明43)に開通した箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が、沿線の集客を目的に13年5月に建設。赤いレンガで囲まれた2万平方メートルのグラウンドは陸上競技やサッカー、ラグビーでも使われ、当時は東洋一の総合グラウンドと言われた。同6月に開場記念として慶大―スタンフォード大戦が行われている。全国中等学校優勝野球大会では第1、2回大会で使用。観客の収容人数などに問題が生じ、大会使用会場は第3回から兵庫・鳴尾球場、第10回から甲子園球場になった。豊中球場は、宝塚に多目的グラウンドが建設されたことに伴い22年に閉鎖され、周辺は住宅地として整備された。

★参加10校 優勝は京都二中

参加校は10校。第1回優勝は、京都二中(現鳥羽)だった。

100年前の大会を再現する計画が進んでいる。12月19、20日の2日間、第1回大会に出場した10校のOBチームが、甲子園で当時と同じ対戦カードで試合を行う。

大会実行委員長を務める、広島国泰寺(当時広島中)OBの山本将司さん(50)は「第1回大会に参加した10校は、歴史の中で選ばれた学校。OBとして、使命があると思います」と言う。

広島国泰寺は、1889年(明22)創部。県内最古の歴史を持つが、第1回を最後に、その後1度も甲子園に出場していない。

国泰寺OBの山本実行委員長(中央)。右は田中さん、左は久保木さん

国泰寺OBの山本実行委員長(中央)。右は田中さん、左は久保木さん

そんな思いも、復刻大会開催への後押しになった。だが、大会開催に向けた資料集めは困難を極めた。

45年8月6日、広島に投下された原爆ですべて焼失した。広島国泰寺の生徒、教職員は計366人、第1回大会に出場したOBも2人が亡くなった。「うちの学校は、歴史を振り返れないんです。130年以上の伝統があるのに、途中ですべてが途切れてしまっている」。

学校の歴史を知りたいという願望も、大会を開催する意義になった。

★アカシアの怨念

広島国泰寺の歴史を、対戦校に残る資料から見つけることがある。

例えば、第1回大会出場をかけた山陽大会決勝、広島商戦。1―1の8回裏2死満塁、左翼に上がった平凡な飛球が、「アカシアの木」の葉に当たって決勝二塁打になった。今では考えられないが、当時はグラウンド内に木が立ち、幹なら、枝ならと、当たった場所で二塁打、三塁打などの特別ルールがあった。高校2年の夏、準々決勝で広島商に敗れた山本さんは「アカシアの怨念だった」と笑う。

歴史を知り、伝統を伝えることで、各校の発展につながると考える。100周年の夏の甲子園は例年より早い、8月6日に開幕。70年前の悲劇の日と重なり、「運命を感じています」。

1915年8月18日に開幕した、第1回全国中等学校優勝野球大会。前夜の同17日午後7時から、選手や関係者約200人が大阪ホテルに集まり、盛大な前夜祭を行った。

東京都出身。2000年入社。
写真部、盛岡支局を経て、05年11月から野球部に所属。担当歴はロッテ―アマ野球―ヤクルト―アマ野球―NPB―遊軍―巨人。
直近は原監督が復帰した19年から2年間巨人を担当し、21年から野球部デスク。