第1回決勝の秋田中から107年…仙台育英が宿願の白河越え/黎明期の高校野球〈4〉

「大旗 白河越え」。2022年の夏、仙台育英がとうに東北の悲願を果たしました。源流をたどると、1915年(大4)の第1回大会、決勝で惜敗した秋田中(現・秋田高)までさかのぼります。(2015年6月5日掲載。所属、年齢などは当時。一部加筆、修正。敬称略)

高校野球

★延長13回の攻防

三沢の「コーチャン」こと、エース太田幸司が延長引き分け再試合の末に敗れた69年夏。東北のダルビッシュ有が、常総学院に打たれた03年夏。高校野球100年の歴史で、東北勢はどうしても優勝に手が届かなかった。

実は「白河越え」のチャンスは第1回大会からあった。

東北から唯一出場の秋田中は、優勝候補だった早実を倒して、決勝に進んだ。1915年(大4)8月23日、京都二中との大一番は1―1のまま延長に突入。迎えた13回裏、1死二塁のピンチで二ゴロに打ち取ったかと思われた。

だが、一塁手の信太貞(しだ・さだか)は二塁からの送球を「お手玉」し、すぐさま本塁へ投げたが間一髪間に合わなかった。「サヨナラ失策」で大旗を逃した。

秋田高野球部史に、当時の渡部純司捕手の回想文が掲載されている。

「その時のしてやられたという思いは今も忘れられない。一塁からのバックホームがずいぶん遅く思はれたものだ」とある。

信太貞一塁手の息子・信太聡一さん

信太貞一塁手の息子・信太聡一さん

信太は多くを語らず48年(昭23)に亡くなった。息子の聡一(81)は、秋田魁新報の元運動記者。父の失策で負けたことを中学2年の時に知った。

今年5月末、聡一は新たな資料写真を目にした。

最後の場面で一塁手の信太が必死に二塁からの送球を止めている1枚だ。見せてくれたのは秋田市内に住む田口清(65)。甲子園100周年を記念した紙芝居を作ろうと、資料を集めている際に発見したものだった。

★写真が証明 紙一重

左足を一塁ベースにつけ、右足を宙に浮かせながら、低い送球を前かがみで捕球していた。京都二中の打者走者・津田は、信太の股のあいだに滑り込み、その左手は足に絡みついている。聡一はむしろ「この後、よくホームに投げたなあ」と感慨深く眺めた。