軽トラのタイヤで打撃マシン…統治下だった沖縄の伝統とは/黎明期の高校野球〈6〉
2022年は、沖縄が日本に返還されて50年になります。続々と強豪を送り出す高校野球にキャンプ。野球どころとなって忘れがちですが、1972年(昭47)までは、球児が甲子園に向かうにはパスポートが必要でした。(2015年6月7日掲載。所属、年齢などは当時。敬称略)
高校野球
★屈指の野球どころに
沖縄の球児が初めて甲子園の土を踏んだのは、1958年(昭33)の夏。半世紀以上が経過した今は、代表校が優勝候補に挙げられるほどレベルが高くなった。
他界した栽弘義(享年65)らの功績が、確実に次世代に受け継がれてきた結果だ。「沖縄野球」の伝統はその地域性から生まれた。
99年、沖縄尚学がセンバツを制した。沖縄代表が初めて頂点に立った瞬間だった。
そこからの沖縄代表の躍進は目覚ましい。08年、沖縄尚学が2度目のセンバツVを果たせば、10年は興南が春夏連覇。
春は99年沖縄尚学を含め、延べ6校が8強入り。夏も同3校がベスト8入りを果たしている。出場校が優勝候補として注目されることは、もはや珍しくなくなった。
★首里高校の校庭に小石
58年夏、首里が沖縄代表として初めて甲子園の土を踏み、0―3で初戦敗退した。
米国の統治下だった当時、持ち帰った「甲子園の土」が、植物検疫法のため帰りの船から海へと捨てられた悲しい物語は有名だ。心を痛めた日本航空のキャビンアテンダントが首里に届けた甲子園の小石は、今も校内の記念碑に埋め込まれている。
悲しい過去を最初に刻んだ沖縄野球は、指導者たちの努力で発展を遂げる。豊見城、沖縄水産の監督として一時代を築き、甲子園通算29勝(部長時代含む)を挙げた栽弘義。その指導の根底は、今も受け継がれている。
栽に憧れ、「弟子」として勉強した金城孝夫(61=現長崎日大監督)が、99年春に沖縄尚学を優勝へ導いた。
★栽弘義のDNA
金城栽さんから教わったのは、環境作りに全力を注ぐ姿。何でも手作り。沖縄水産時代は、軽トラックのタイヤで打撃マシンを作ってましたから。私もトレーニング器具を手作りしますから「栽さんの弟子らしいですね」と言われるんです。
創意工夫でカバーする精神。工夫をこらす思考は野球の戦術にも通じる。
