「雪があるから」は禁句!オール道産子が優勝旗をつかむまで/黎明期の高校野球〈7〉
甲子園の歩みをたどる連載、第7回は北海道編。北の大地に優勝旗を持ち運ぶべく、まくらことばの「雪国のハンディ」を取り払う奮闘にフォーカスします。(2015年6月8日掲載。所属、年齢などは当時。敬称略)
高校野球
★我喜屋優の金言
04年夏、深紅の大優勝旗は一気に津軽海峡を渡った。オール道産子で、春夏通じて甲子園初優勝を果たした南北海道代表の駒大苫小牧は、翌年、史上6校目の2連覇を達成。06年にはエース田中将大を擁して3年連続で決勝へと進み、北の大地を熱狂の渦に包んだ。「雪国のハンディ」を、言い訳にしない。九州からやってきた2人の野球人の知恵と反骨心が、歴史を動かした。
甲子園で初優勝した選手が入学する少し前、その挑戦は、道南にある小さな町のすし店から始まった。
店内で野球談議をしていたのは、当時、駒大苫小牧の監督だった香田誉士史(よしふみ)と、社会人野球の大昭和製紙北海道で選手、監督と歴任し、普通のサラリーマン生活を送っていた我喜屋(がきや)優(64=現興南監督)の2人だ。
なぜ、大昭和製紙北海道は全国大会で好成績を挙げられたのか。佐賀出身の香田は、特に冬場の練習に頭を悩ませていた。
「雪があるからなんて言い訳はやめなさい。自分の家の前を雪かきするように、グラウンドだってすればいい」という沖縄出身の我喜屋の言葉は、香田に響いた。
我喜屋北海道代表は甲子園で負けた時に、雪に閉ざされた半年間の言い訳をする。マスコミもまた、それを聞いて慰め合うというのが、何十年も続いていた。外の気温はマイナスで、野球の練習は室内ばかり。監督はたいてい、ストーブの前で山の熊さんみたいに座り込んで動かない。
駒大卒業後、95年に駒大苫小牧へ赴任した香田は「北海道の子たちは野球という種目をやっていない」と感じていた。
室内にこもる冬は、個人練習一色になりがちだ。冬場も継続してチームプレーを練習できれば。その方法を、模索していた。
