【上甲正典監督を悼む】宇和島東と済美でセンバツ初出場、初優勝 愛媛を四国の雄に
2014年9月2日。宇和島東と済美でセンバツ初出場、初優勝を達成した上甲正典監督の命日です。写真から伝わってくる通りの人間味が、訃報の本記と「悼む」からも、にじみ出ています。故人の編集でいつも驚かされるのが、略歴のバイタリティー。愛媛を野球どころにし、芯の太いプロ野球選手を輩出した功績は計り知れません。(2014年9月3日掲載。所属、年齢などは当時)
高校野球
◆上甲正典(じょうこう・まさのり)1947年(昭22)6月24日、愛媛県三間町(現宇和島市)生まれ。宇和島東高時代は5番遊撃手。龍谷大卒業後は三和金属、村上戸井と野球から離れ、薬種商の資格を取り、75年に上甲薬局を開店。76年に宇和島東の監督に就任。88年センバツで「牛鬼打線」を率い初出場初優勝。01年10月、済美の監督に就任し、04年センバツで創部3年目で優勝。原貢監督(三池工、東海大相模)木内幸男監督(取手二、常総学院)に次いで2校を優勝に導いた。甲子園通算17度出場で25勝(歴代21位)。01年に妻節子さんを病で亡くした(享年52)。
宇和島東、済美(ともに愛媛県)の2校をセンバツ初出場初優勝に導き、ヤクルト岩村明憲内野手(35)広島福井優也投手(26)ら多くのプロ野球選手を育てた上甲正典監督が2日午前9時15分、胆管がんのため愛媛県東温市内の病院で死去した。67歳だった。病のことは口外せず、闘病生活を送りながら、今夏の県大会を指揮したが、甲子園大会期間中の8月中旬に症状が悪化し入院。帰らぬ人となった。
がんをひた隠し
最後に会ったのは6月。元気に焼き肉を食べる上甲さんが、がんと闘っていたとは信じられない。
控え選手だった大学時代最後の公式戦。同期が次々と起用され、次は自分だと準備していると、下級生が起用された。その悔しさをバネに指導者を目指した。
いつも「うちに泊まっていけ」と言ってくれるので、宇和島でホテルに泊まった記憶がほとんどない。
