「まずはファンが、何を求めているのか」…ミスターの哲学を胸に/松井秀喜の今〈2〉
「ファン・ファースト」。スポーツ、エンタメのほうぼうで聞き慣れた言葉になりました。元祖は松井秀喜氏(48)の恩師、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督で異論なしでしょう。誰よりも近くでミスターを見てきた松井氏。根底にイズムが受け継がれています。うれしい肉声、第2弾です。(敬称略)
プロ野球
ワールドシリーズMVPで移籍 2009年の選択が基準
巨人、ヤンキースなどで活躍した松井が、2012年限りで現役を引退して以来、球界内には指導者としての「待望論」が途絶えることはない。
松井自身、指導者への意欲を公言したことはないが、育ててくれた日本球界への恩義を忘れたことはない。
現役時代から、松井は自らの処遇が節目を迎えるたびに、常に「必要とされる」ことを、決断する際の最優先事項に置いてきた。
ヤ軍時代の09年ワールドシリーズでMVPを獲得しながら、そのオフ、残留交渉は進まなかった。その後、FA移籍を決断した松井にとって、「必要とされ」「求められる」ことは、人生の選択の中で何よりも重要な要素だった。その判断基準は、今も変わっていない。
◆松井秀喜(まつい・ひでき)1974年(昭49)6月12日、石川県生まれ。星稜時代は甲子園に4度出場。高校通算60本塁打(甲子園4本)。92年ドラフトでは4球団競合の末、長嶋監督が抽選を引き当てた巨人に1位で入団。96、00、02年リーグMVP。ベストナイン8度、ゴールデングラブ賞3度。00年正力賞。03年にFAでヤンキース移籍。09年ワールドシリーズMVP。エンゼルス、アスレチックス、レイズを経て12年に現役引退。13年に長嶋茂雄氏とともに国民栄誉賞を受賞。19年1月、43歳7カ月の最年少で日本の野球殿堂入り。現在はヤンキースGM付特別アドバイザー。現役時代は186センチ、103キロ、右投げ左打ち。
22年8月、コロナ禍で中断していた野球教室が約3年ぶりに再開したことで、松井は久しぶりに公の場に姿を見せた。
21年東京五輪の開会式では、長嶋茂雄、王貞治の「ON」と一緒に聖火リレーを務めた。だが、その後はヤ軍の巡回コーチも「休職」しており、ニューヨーク郊外で2人の子息の成長を見守りながら、静かな日々を送っていた。
12年限りでユニホームを脱いで10年。周囲から「現場復帰」を期待する声は、引退直後ほど聞かれなくなった。
使っていなかった枕詞
野球教室で、子供たちへの指導を続けてきたこともあり「ここも現場ですよ」と笑い飛ばす。プロでの指導意欲についても、これまでと同じような言葉を繰り返した。
「まだ今は、全然考えてないですよ。青写真は描いてないです。自分の中では、分からない、というのが正直な答えです。本当にね。指導者ということは今は考えてないです」
松井を取り巻く環境は、今も変わっていない。ただ「まだ今は」のひと言は、数年前には使っていなかった。
92年ドラフト1位で松井に4球団が競合した際、当たりクジを最後に引き当て、親指を立てたのが巨人長嶋茂雄監督だった。
幼少時から掛布雅之に憧れていた、大の阪神ファン。それでも、18歳の松井は巨人入りを即決した。
当時は、日本初となるプロサッカーのJリーグが発足した直後で、野球人気の低迷が叫ばれた時期だった。救世主として「必要とされ」「求められて」第一線に復帰したのが、長嶋監督だった。
そんな国民的ヒーローとの運命的な出会いが、その後の松井の野球人としての礎となった。
停滞しかけた空気 一変させるためには
長嶋監督の復帰は、停滞しかけていた球界の空気を一変させた。
春季キャンプでは、長嶋監督がジャンパーを脱いだり、宮崎名物の「釜揚げうどん」を食べたりしただけで、スポーツ紙の1面を飾った。自ら積極的にメディアと接し、常に話題を提供する同監督のサービス精神を、当時18歳の松井は最も近い場所から見ながら育ってきた。
技術的には、細かいバット操作よりも、常に「強く振る」というシンプルな要素を教わった。強く、鋭く振れば、質のいい打球が飛ぶ。スイングの「音」を重視した長嶋の指導は、やはり感覚重視だった。
長嶋からは、言動や振る舞い、技術だけでなく、プロ野球人としての「魂」を受け継いだ。
かつて松井が「監督が何を考えているかといえば、ファンのことしか考えてないんです。ジャイアンツが勝つことというよりも、ファンのこと。あの姿勢は、普通の監督はできない。長嶋茂雄にしかできないです」と表現した恩師の姿が、理想の「指導者像」であることは言うまでもない。
