【水原茂】野球教室のラスト、少年に高級腕時計を投げた その43年後…/連載〈4〉
胆力-。物事に動じない、恐れない気力を示します。野球人は胆力を武器に、その世界で生き抜いてきました。
少年時代の刹那の思い出。月日が流れてもなぜか忘れられませんでした。野球人との「交差」は、その後の人生に何をもたらしたのでしょうか。記者が知人から聞いたエピソードは、半世紀近くがたった今、侍ジャパン監督の行動ともシンクロし、少なからず「意味」を生んでいるように思えました。(敬称略)
プロ野球
◆水原茂(みずはら・しげる)1909年(明42)1月19日、香川県高松市生まれ。高松商で2度の夏の甲子園優勝。慶大では早大・三原とライバルとしてしのぎを削った。34年巨人入りし、42年にMVPに輝く。終戦後のシベリア抑留を経て49年7月24日、後楽園球場で「水原茂、ただいま帰ってまいりました」と帰還をファンの前で報告。50~60年に巨人監督としてリーグ優勝8回、日本シリーズは4回制覇。その後東映でも62年にリーグ優勝と日本一。中日監督では優勝できなかったが、星野仙一、谷沢健一ら若手を育成した。監督通算1586勝は歴代4位。77年に野球殿堂入り。82年3月26日、肝不全のため死去。享年73。
西武球場での野球教室
宙を舞ったのは白球、ではなかった。文字盤に長針と短針、そしてバンド。数メートルの距離から、ポ~ンと下手投げでトスされたのは、時計だった。少年は意表を突かれた。
本能的に腰を落とし、憧れの人工芝に重心を沈める。左手にグラブははめていなかった。だが素手の左手を差し出し、右手を添える。自然と造形された盤石の捕球体勢。
時計は「カチャッ」という軽い衝撃音とともに、少年の両手に柔らかく包まれた。
「そうだ! そうやって、ボールを捕るんだ」
声の主は70歳を過ぎていた。だが勝負師特有の鋭さを帯びた両目を見開き、叫んだ。水原茂。監督として9度のリーグ優勝と5度の日本一。名将と呼ばれた男との一瞬の交わりを、小学校高学年だった秋山稔明は40年以上たった今でも、ふいに思い出す。
まだ屋根もかかってなかった時代。ネーミングライツの概念もなく、シンプルに「西武球場」と呼ばれていた。ドジャースタジアムをモデルに内野スタンドからは狭山の山並みも目に映る、近代性と風光明媚(めいび)な情景が共存していた。
79年に開場したばかりの野球場に足を踏み入れるだけで、鼓動は早まった。少年野球チーム「ジェットウイングス」所属の秋山少年は、野球教室に参加した。
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