天覧試合の紙面に長嶋の顔がなかった…流れを変えたもう1人のヒーローがそこにいた

1959年(昭34)6月25日、天皇、皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后)が巨人対阪神を観戦した。その後、平成、令和でも実現していないプロ野球公式戦で唯一の「天覧試合」は、長嶋茂雄(23)がサヨナラを含む2本塁打を放ったほか、記録にも人々の記憶にも残る一戦だった。翌26日の日刊スポーツを読んでみると、いつもと違う選手と紙面がそこにあった。(選手の年齢は当時)

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1959年6月26日付の1面

1959年6月26日付の1面

1959年6月26日付の2面。右上の方から1面の関連記事が「あふれ」ている

1959年6月26日付の2面。右上の方から1面の関連記事が「あふれ」ている

1面に掲載しきれない特別紙面建て

「天覧試合」を伝える翌26日付紙面は当然1面だったが、2面にも関連記事が掲載された。現在の社内の専門用語だと2面に「あふれ」させる構成だ。見出しも写真も記事の活字も大きくなかったから、1ページに情報がたくさん掲載できた時代で、「あふれ」を使うのは超特別紙面建てだ。

1面に掲載された写真を見よう。両陛下が試合をみつめる1枚のほかに、サヨナラ本塁打の長嶋が生還する瞬間を背後から撮影したのがメインだ。出迎える十時啓視(23)、広岡達朗(27)、王貞治(19)、藤田元司(27)、森昌彦(当時=22)は笑顔でも、長嶋の笑顔は見えない。その下の、三塁ベース横で笑顔で手を回している写真は…コーチボックスに立っていた水原茂監督(50)だ。サヨナラ弾にかなりの興奮ぶりなのだが、「あふれ」の2面を見ても主役の長嶋の顔がない。かなり意外な紙面構成。現在のデジカメなら、表情のある写真をすぐに探して、差し替えただろうが、現像してみないと分からないフィルムカメラでは、いたしかたなかったかもしれない。そうでなくても、両陛下に選手たち…。カメラマンは追いかける表情がいつもより多かったし、締め切り時間間際に飛び出したサヨナラアーチ。編集局内は喜びの表情が紙面の外にあふれてしまう、ドタバタぶりだったのだろう。

評論記事「両軍とも硬くなっていた」

巨人藤田、阪神小山正明(24)という両エースの投げ合いは接戦だったが、予想に反して、投手戦ではなかった。2面のあふれに両者の談話があった。

巨人藤田投手の話 やはり立ち上がりは硬くなった。どうしても勝ちたかったが、4点取られたときは駄目かと思った。(中略)もう少しいいピッチングがしたかった。

阪神小山投手の話 きょうは始めから調子が悪かった。仕方なくスローカーブを多く使ったが…。(中略)やはりスピードがなかったんだ。

59年6月26日付2面の楠安夫氏の評論記事

59年6月26日付2面の楠安夫氏の評論記事

2面に掲載の元巨人捕手の楠安夫氏の評論記事の書き出しも「硬くなっていた。たしかに、両軍とも硬くなっていた。両陛下ご観戦という特殊な雰囲気がそうさせたのだろう」と、選手の緊張ぶりを指摘していた。この人はどうだったのだろう。現役時代は合気道を取り入れるなど冷静沈着な名遊撃手としてならし、監督として徹底した管理野球でヤクルト、西武を日本一に導いた。我々の年代なら漫画「がんばれ!!タブチくん!!」でタブチくん、ヤスダくんに表情を変えずにてこずる? ヒロオカ監督のモデルにもなった広岡の談話に注目だ。

巨人広岡選手の話 早大時代に、天皇陛下の前でプレーしたことがあるが、あのときは1年生で、プレーするだけで精いっぱいだった。きょうはそんなことはなかったが、1回の守りはやはり雰囲気がよそゆきだったし、ちょっとおかしかった。陛下はたまにしかおいでにならないのだから、いいプレーをお見せしようという意識はあった。ところがとんだエラーをしてしまった。

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編集委員

久我悟Satoru Kuga

Okayama

1967年生まれ、岡山県出身。1990年入社。
整理部を経て93年秋から芸能記者、98年秋から野球記者に。西武、メジャーリーグ、高校野球などを取材して、2005年に球団1年目の楽天の97敗を見届けたのを最後に芸能デスクに。
静岡支局長、文化社会部長を務め、最近は中学硬式野球の特集ページを編集している。